久しぶりに哲学について考えてみました-ニーチェと王陽明の教え(後編)
皆さま、こんにちは!
引き続き、後編をご覧いただきありがとうございます。
今回は、哲学をどのように実践してきたか、その遍歴を説明し、そもそも哲学の意義って何なのか、そして超人をどのように定義するかを話していきたいと思います。
この記事の内容は人を選びます。前編をまだご覧になっていない方は、まずはそちらをご覧ください。
それでは、はじめます。
哲学とその社会実践の遍歴
まず、自分の過去の遍歴を簡単にご紹介します。
私が30歳の頃、今から11年くらい前の話ですが、当時人生に悩んでいたため、あらゆる書物を読み漁りました。希望を求めて、藁にもすがる思いでした。その過程で出会ったのが、ニーチェや王陽明の哲学です。
その最初の試行錯誤の数年間は、ブログサイト「学問を究める道楽道(ココ!)」に記載しています。2014年以降、サイトをずっと更新していなかったのですが、今でも時々閲覧される方がいらっしゃるようで、本当にうれしいです。
その後、活動中出会いがありまして、ある企業に社員としてスカウトされて仕事を始めます。詳細は(Youtubeの)説明欄に書いてありますが、そこで私は、自分の学んできた哲学を実践してまいりました。
一緒に仕事をされてきた同僚は、自分が変わった人間だという認識を、大なり小なり持たれていたと思います。
その企業の社長は、顔が広く、マスコミから時々取材を受ける方なのですが、その人が私のことを「宇宙人」と形容しておりました。
何千人という人を今まで見てきて、私の評価がそれですから、よっぽど変わって見えていたんだと思います。
本記事をご覧いただいていると、そこまで自分が変わっているようには見えないと思います。
それは正しいご賢察です。
なぜかと言うと、一つ目の理由として、自分も一応常識は弁えていますし、あまり目立とうと思わないからです。
二つ目の理由として、ニーチェの超人も、陽明の到良知や知行合一という教えも、どちらも表立って人に見せるものではないからです。将来の非常時のため、自分を鍛えておく教えです。
これは、王陽明の「精神・道徳・言動は概ね収斂を主となす。発散はこれやむことを得ざるなり」という教えを参考にしています。
収斂とは、引き締めるという意味で、つまり精神や道徳、お話は大っぴらにすることではない、という意味です。
哲学とは何か?
次に、哲学を学ぶ意義について話しておきたいと思います。
多くの人は哲学に興味を持たれません。であれば、哲学は重要ではない、という事なのでしょうか?
私の意見では、多くの人にとって、おそらく哲学は必要ではありません。しかし、一部の方にとっては、どんな学問にも勝る価値が生じます。
なぜ価値があるかと言えば、それは、人生の問題や悩みを解決するヒントがそこにあるからであり、自分は何者なのか、どのように生きるべきか、という答えを導き出すための道しるべとなるからです。
人生の切実な問いや悩みに答えられない哲学は、あまり意味がないと思います。
超人の定義
最後に、超人とは何かを定義しておきます。
そうしないと、それぞれが自分のイメージする人を思い浮かべると思うからです。
人によっては、映画のスーパーマンをイメージするでしょうし、ある人にとってはプロのアスリート、またある人にとっては頭の回転が早い天才を思い浮かべるかもしれません。
見方によってどれも間違ってはいないと思いますが、ニーチェの言及している超人とはいささか異なります。
王陽明の教えと合わせて、私なりの基本的定義をしておきたいと思います。
超人の条件とは、「志を立て、勇気と誠実さで己を克服し続ける人」と私は定義します。
その上で、「この世の何が善で、何が悪かを定義し、人類の目標を設定できる人」とします。
そこから先は、それぞれのあり方を確立させていけば良いかと存じます。人の顔が皆異なるように、別に皆が同じ考えである必要はないと思います。
まとめ
今回はここまでとします。
本記事後編では、私が哲学を実践してきた変遷、哲学・超人の定義など、基本的な背景確認を行いました。
後念のため、生来の私は、大人しくて弱い人間だという事を知っておいてほしいです。もちろん、今の私ははるかに強い人間ですが。
次回からは、具体的にニーチェやツァラトゥストラの人生・生き方について、少しずつ言及していこうと思います。