【哲学】Part3 ニーチェの言う超人とは?-ツァラトゥストラを読み解く

皆さま、こんにちは!

前回から少し時間が空きましたが、引き続きニーチェの哲学をどのように解釈し、実践してきたかをまとめたいと思います。

今回は岩波文庫さんの『ツァラトゥストラはこう言った 上』より、第一部『超人と「おしまいの人間」たち』の三節と四節に当たる内容についてお話します。

山を下りたツァラトゥストラが、町の広場で民衆を前にして『超人』とは何かを伝えるシーンです。

超人5つのポイント

ここで彼は、5つの観点から超人について説明しています。

超人5つのポイント

一つ目は「人間は克服されなければならない或る物である」と言っています。言い換えると、克服した人間が超人ということになります。

二つ目は「超人は大地の意義」とも言っています。

そして三つ目は「大海」、四つ目には「稲妻」、最後に「狂気」という表現も使っています。

今回は、それぞれの意味について、私自身の経験と交えながら考察していきたいと思います。

1.『克服した人間』となるために自分は何をしたか?

今から10年くらい前に、ニーチェの書物から「人間は克服されなければならない或る物」という事を初めて学びました。

そもそも、なぜ哲学を学び始めたかと言うと、当時の私は臆病で意思の弱い自分自身に嫌気が差しており、自分はこの程度なのか、という絶望感にかられていたためです。

そこで新たな可能性、未来を探るために必死でしたので、何をしたかと言うと、まずは『立志』つまり『志を立てる事』から始めました。

学問を究める上で、志を立てることが一番大事だからです。江戸時代に『言志四録』を著した佐藤一斎はじめ、多くの人々が言及しています。

佐藤一斎『言志四録』

ちなみにここで言う『克服』とは何かというと、私は『克己(己自身に打ち克つこと)』と解釈しています。

よく『最大の敵は自分自身』と言いますが、その通りだと思います。

気づいた方もいらっしゃると思いますが、当サイトのロゴマークを『克』としたのは、この『克己』からきています。

2.『大地の意義』として自分は何をしたか?

次に、ツァラトゥストラは「超人は大地の意義である」と言っています。

これは「地に足を付けて生きなさい」など、いくつか意味があると思いますが、私はそのままの意味で解釈しています。

後世に多大な影響を与えた熊沢蕃山の『武士土着論』、つまり武農一体の考えと似ていると思いましたので、自給自足農業やニワトリの飼育という形で私は実践いたしました。

かぼちゃの自然農栽培

日光浴しているニワトリ

この経験は非常に大きな価値観の転換をもたらし、自然や生命、そして学問とはどういう事なのか、自分なりの理解ができるようになりました。

3.『大海』とはどのような心境なのか?

次に彼は「人間は大海、大きな海にならなければならない」と言及しています。

これは簡単に言えば、「人の世は綺麗ごとだけでは済まないから、現実を受け入れつつも、自らが劣悪な感情に染まらないよう、大きな心を持ちなさい」という意味もあると思います。

ただ、『善悪の彼岸』を説いているニーチェの言わんとしている事は、これだけではありません。無条件で善を肯定しているわけでも、悪を否定しているわけでもないからです。

私自身、大海原のような大きな心を持っているかと言えば、若い頃の神経過敏だった状況に比べればはるかにましになりましたが、それでもまだまだ未熟だと感じます。もう少し人生経験が必要なようです。

ここで大海の心境について、中国の王陽明が『泛海(はんかい)』という詩で表現されているのでご紹介したいと思います。逆境や順境にも超然たる心境を表しており、北越の英雄『河井継之助』が好んだ詩でもあります。

王陽明『泛海』大海の心境を表した詩

4.『稲妻』になるとはどういう事か?

そして四つ目に、ツァラトゥストラは超人を『稲妻』と呼び、自らを『稲妻の告知者』と称しました。

ここで、重要な洞察があります。

それはツァラトゥストラは超人ではないという事です。

彼はあくまで人を超人へと導く『架け橋』であり、近い存在ではあっても、超人そのものではないので注意する必要があります。実際彼は困っている人に深い同情を示したりと、妙に人間くさいところがありますし。

ちなみに私はどうかと言うと、あくまで自分も『超人への架け橋』であり、『認識者』に過ぎません。

抽象的表現となりますが、羊がいくら頑張っても虎にはなれません。つまりそういう事です。

では、どのような人物が『稲妻』『超人』と呼べるかと言いますと、岡倉天心の詩が的を射ていると思うので、引用いたします。

岡倉天心『日本の目覚め』

5.『狂気』とは何か?

最後に、「超人は狂気なのだ」と言っています。

太陽が地平線に落ちていくように、破滅や没落を望むのですから、ある意味『狂人』なのかもしれません。

ただ、もう少し説明すると、『狂人 (狂者) 』とは、孔子の『論語』にも「狂者は進取 (しんしゅ) す」と出てくるように、否定的どころか肯定的に捉えることもできます。

どういう形であれ『自己や社会矛盾と戦う』には、大なり小なり『狂気』は必要だからです。

まとめ

今回はここまでとします。

第一部『超人と「おしまいの人間」たち』の三節と四節に当たる部分についてお話しました。

本記事の全てにご同意いただくのは難しいかもしれませんが、部分的にでもご参考となる内容となっておりましたら幸いです。

私はこれからの時代、人は物質的な進化だけを追い求めるのではなく、精神的な進化が絶対に必要だと感じています。

世界平和を望むのならば、なおさらです。

技術がこれだけ進んでも、昔の書物を読む限り、人の精神は大昔から大して成長していないように見えるのが気がかりです。

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