江戸時代の武士を救ったセーフティネット「土着論」の考察
今回は、現代社会の矛盾で苦しんでいる日本人を救うセーフティネットとして、なぜ自給自足や地産地消の考えが大事なのかを、「武士土着」という歴史的観点から政治・経済・国防・文化など、幅広い分野に渡って論じていきたいと思います。
自給自足や地産地消という言葉は世間に溢れていますが、私が目指すべきと考えているのは、その先にある「健全な民主主義」の実現であり、個人を救済するセーフティネットの構築と共に、バランスの取れた文武両道の国家を目指すことです。
そのためには、日本人全員が生活していく為の最低限の土地を保有し、己の力で生計を立てられる手段を確保して、個人の強さや主体性が養なわれなくてはなりません。また、上のイラストにも描かれているように、仕事(労働)とは本来楽しいものであるべきです。本人にとって詰まらない、価値がないと思っていても、生計のために仕事を強いられる状況にあるとすれば、その人にとっても社会全体にとってもあまり幸福な事ではありません。
これはよろずの人生哲学根幹に関わる話なので、妥協して書くつもりはありませんが、現在の私が扱う話題としては正直力不足は否めず、もう少し考えを成熟させてから書こうと思っていました。しかし、未完成でも早めにネットにアップしておいた方が良いと判断しましたので、穴だらけの論なのは重々承知した上で書いていることをご了承願います。
注意:
本記事は非常に長く、話も込み入っています。そういった内容が苦手な方はここでお戻りになられた方が良いかもしれません。
補足:
前半部の記事を投稿した段階で、文字数がすでに1万3000文字を超えています。本意ではありませんが、後半部の記事は分けて掲載することにしました。
記事更新日:
前半部-2014年5月8日掲載
後半部-いろいろ理論を書く前に、まず自分で哲学を実践することにしましたので、記事の掲載時期は未定となります。予定していたタイトルは「現代人を救うセーフティネットの考察-健全な民主主義実現へ」です。
初めに
江戸時代から現在まで続く、資本主義や貨幣経済中心の一般常識から考えると、自給自足の共同社会の構築など、非現実的で荒唐無稽な話に聞こえるかもしれません。確かにその通りで、現状無理がある話である事は自分でもわかっています。しかし一方で、先行きが見通せず、様々な問題が表面化している現在の日本社会が、このまま継続していくと考えている人も少ないと思います。
もちろん国家全体が自給自足を国是とする必要性は全くなく、あくまであらゆる事態を想定して、弾力性や個人の選択肢のある社会構造が必要だと感じているからこその提案です。黒か白かの二元論の話ではないことを、ご理解いただければと思います。
現代の資本主義・貨幣経済のシステムを継承しつつ、過去に失われた良い部分も見直し、それらを総合的に融合させながら未来を模索すべき時期に来ています。そして、その模索を行うためには、現代人の自省が絶対に必要不可欠です。資本主義がどうとか、社会主義がどうとかいう器やシステムの議論では不十分で、人自身が変わらない限り、新たな未来は築けません。
世の中にはいろんな人たちがいて、その人たちは皆、理由があって生まれてきています。平時には順応性の高い処世知に長けた人たちが尊ばれるとしても、いつまでも安穏とした世の中が続くとは限りません。時・場所・状況・地位によって、適性や必要とされる人たちも異なります。しかし現状の社会では、人材のミスマッチが当たり前のように頻発しています。
1.江戸時代の武士道と明治維新の功罪
私が非常に危惧しているのは、有事に必要とされる人材が日本で全く育っていないのでは?と感じる事です。毎年3万人が自殺していますが、その中にも特異な才能を持った人たちが沢山いたと思われます。世界平均と比べてもかなり自殺率が高い現代の日本は、江戸時代末期の閉塞した状況と似ているような気がしてなりません。武士としての気概もなく、当時の多くの小大名は戦いもせずに維新を掲げる薩長軍に白旗を挙げました。過去に武士が滅んだ状況と同じ道を、今後の日本人も歩む可能性があると感じます。
ちなみに、私は明治維新を必ずしも肯定的に捉えているわけではなく、物質的な繁栄という面では良い影響があったことも認めますが、日本人の精神まで膨張・拡大主義の西欧諸国を真似てしまったため、信義よりも強者に媚びることを優先して、当時勢いを増していたドイツと安易に同盟を結んだり、良心のタガが外れた皇軍が中国で非道な事を行ったり、アメリカを敵にしてしまった結果、最後は広島・長崎に原爆を落とされて終戦を迎えるなど、散々な結果を招いてしまったと考えています。勝てば官軍的史観ではなく、江戸時代の武士道や明治維新の功罪をもう一度冷静に見直すべきではないでしょうか。
2.人は皆「替えが利かない」
現在インドで一億人の仏教徒を率いている、佐々井秀嶺氏は若い頃に三度自殺未遂をしています。特異な性格・能力ゆえに社会に受け入れられず、人知れず消えていっている人が現実に多いとしたら、その損失は計り知れないものがあります。もちろんそういう特殊な人に限らず、人は皆「替えが利かない」のは当然の事で、ビジネスの世界では「おまえの代わりなどいくらでもいる」という言葉を耳にすることがありますが、それは人が作った不完全なルールの下でしか通用しない、分別智から生じる理屈であって、自然から見れば万物平等なのは自明の理です。
また、将来どんな勇者や救世主が出てこようと、一人では何もできないことを十分理解しておかなくてはなりません。例えば、高杉晋作に付き従う70名の志士がいたからこそ、維新回天の口火を切る原動力になりえたんであって、彼一人では何事も成し得ることはできませんでした。必要な時に十分な数の豪傑の志士(王陽明の抜本塞源の論より)が揃わなければ、現実に直面する危機に対して敗北することになります。
3.自己本位の労働が生み出す本当に大切なもの
皆が現状の他人本位(他人のため)の仕事でお金を稼いだり、競争社会に違和感なく順応できるわけではなく、自己本位の労働(自分が生きていくための労働)で、最低限生活していける柔軟な社会の構築を目指す必要があると私は考えています。それは、社会のセーフティネットの役割を果たしますし、個々人が主体性を持って生きることで、健全な民主主義の育成にも役立つはずです。
昔と比べて、今は数えきれないほどの職業が乱立しており、職種が増えるにつれて人の心もバラバラになっています。しかし、それらの仕事のどれだけが、生きていくために本当に必要とされているんでしょうか?無意識的に意味がないと知りつつも、そんな仕事をしてお金を稼がないと生きていけない現代社会の理不尽さを、そろそろ真正面から見つめてもいい頃合だと思います。草木も枝葉が繁茂し過ぎれば剪定を行うように、社会全体にも剪定が必要です。ただし、剪定時には必ず犠牲が伴いますので、その犠牲者を救うためにもセーフティネット、つまり「土着論」が非常に重要な意味合いを持ってきます。
ちなみに、自己本位や他人本位の意味については、詳しくは夏目漱石著の「私の個人主義」を参照していただければと思います。この部分が理解できないと、なぜ私が自給自足や地産地消、さらに民主主義の話をするかもわからないはずですから。
多分、ここで論じる「土着論」は年々増加の一途を辿る生活保護の減額にも間接的には貢献すると思います。しかし、私はそんな損得勘定のために主張しているわけではない事を、はっきりと強調しておきたいです。もし私の言っている事が理想論や妄想に過ぎないと思うのであれば、それでも構わないのですが、多分似たような歴史を再び繰り返す事になるでしょう。現代は70年前の世界大戦の時とは使用する武器も社会情勢も異なりますので、そこらへんもよく考慮に入れて、真剣に考えるべきだと思います。
4.記事に関連のある書物について
このページで書かれている内容の多くは、大橋健二氏の書物に依拠しています。特に上の写真に載っている真ん中手前にある三冊『日本陽明学 奇蹟の系譜』『反近代の精神 熊沢蕃山』『新生の気学』は非常に参考にさせていただきました。
元々私は、蕃山が主張している「土着論」を書物で知る以前から、「自給自足」や「地産地消」を主張していましたが、後で蕃山の思想や方谷の功績を知った時、歴史的観点から己の信念の正当性を証明する一助になったので、本当に勇気づけられました。過去の偉人から学ぶべきことは他にも沢山ありますし、ここでは特に彼らの思想を引用しながら話を進めていきたいと思います。
ちなみに、『反近代の精神 熊沢蕃山』はどこにも売っていなかったので出版社に問い合わせてみた所、再版の予定が無く、私は中古で入手しました。中古本は非常に高額ですし、もし原著を読みたい方は、図書館などで探してみるのが良いと思います。『日本陽明学 奇蹟の系譜』もまた、どこの書店でも現在扱っていませんが、出版社である叢文社に問い合わせてみた所、こちらの書籍は「オンデマンド注文」によって個別に製本して売ってくれるようです。装丁などの見た目は写真のものと多少異なるかもしれませんが、内容は変わりませんので、もしご興味がありましたら問い合わせてみると宜しいでしょう。下記のリンク先に注文方法が書かれています。『新生の気学』に関しては、まだ在庫はあるようですが、内容的にちょっと初心者向けじゃないような気がしますので、可能であれば初めの2冊を優先的に入手されることをお勧めします。
5.本記事を引用されるに際して
基本的に当サイトは、引用の際にリンクさえ付けていただければ自由にしてくださって構わない、というスタンスになっています。本記事もそうなんですが、もし本記事を引用される際は、このページにリンクを貼ってくださるようお願いします。というのも、ここで書かれている内容は「道楽道」サイトやよろずの哲学の根幹に関わっていますので、読者の方に勘違いされたくない、という思いが強いからです。一応オリジナルの記事も尊重していただければと思います。
先ほども書いたように、ここでの内容は多分間接的に、生活保護を含む社会保障費の削減にも繋がるはずです。しかし、私はそれを意図して書いているわけではありません。あくまでもお金に依存しない「社会のセーフティネット」を構築し、「健全な民主主義」を実現するための万民救済策として提言していることをご理解願えればと思います。
様々な問題をこのまま放置せずに、一刻も早く平和的な解決策を立てて実践する必要があります。増税や移民受け入れなど、対症療法的な現在の政府の政策を見ると、大怪我をしている患者に絆創膏を貼っているような滑稽さを感じてしまい、何とも微妙な気分になってしまうからです。
「またツァラトゥストラの言葉が限りなく正しいばあいであっても、あなた(利己心により復讐心が芽生えた人の事を指す)がその言葉を使えば、かならず―――正しからぬ結果になる!」
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』より
補足:
私心のない純粋な動機であれば、たとえ怒りや悲しみが原動力であっても、少なくとも本人にとっては正しい行動になると思います。それを聞き入れる他者にとっても正しいかどうかは、状況や時機を考慮する必要があるので、また別の話です。仮に同じ言葉や理論でも、違う人が説明したり、受け入れる側によって意味合いが異なってくる可能性があるという事になります。
ちなみに、ツァラトゥストラとは10年山にこもって修養し「超人」となった、ニーチェの思想を代弁する架空の人物です。超人は「大地と共に生き」たり「戦士」としての特徴を持っているため、本記事で紹介する「百姓」や「農兵一体」とも親和性があります。
熊沢蕃山とは
それではこれより本題に入っていきたいと思うんですが、その前にそもそも熊沢蕃山って誰?という疑問が湧いてくるかもしれませんので、まずは彼について簡単に紹介します。詳しくは、時間があれば別途記事として書くかもしれません。
熊沢蕃山がどういう人かを簡単に言えば、日本陽明学の祖で彼の師でもある中江藤樹の思想を受け継ぎ、それを発展・完成させ、江戸時代屈指の思想家・経世家・政治家として評判が高く、彼によって現在の日本が形作られた、と言っても過言ではない程後世に多大な影響を及ぼした人です。
例えば、熊沢蕃山がいなければ高杉晋作や西郷隆盛のような豪傑が生まれなかった可能性がありますし、その結果明治維新が起きなかったかもしれません。また、大戦中に東郷平八郎や石原莞爾がいなければ、ロシアなど外国勢力に早い段階で負けて植民地にされていた可能性もあります。いずれにしろ、蕃山がいなかったら現在の日本とは大きく様相が異なる社会になっていたことは確かだと思います。
1.蕃山の学問・思想・功績
蕃山の学問は、高い理想を持った江戸時代当時としては異端の学風で、外部の権威より内なる主体性を重んじる陽明学に通じ、博識や美文など枝葉末節のことは問題にしませんでした。口だけ達者な学者と異なり、行動が実践的で果断だったため多大な功績を残した一方、幕府の中央集権制度を根底より破壊するものとして時の権力者を激怒させた結果、彼の後半生は輝かしい出世と治世の前半生とは対照的に、世間から見れば不遇に満ちた中で窮死しています。蕃山本人は「特定の何れの学問も取らず」と主張していますが、基本的には中江藤樹から教えられた良知の学(陽明学)を本にしています。
蕃山の代表的な思想や主張を列挙すると、本記事で主に扱う「武士土着論」を初めとして、民を親しむ「親民政治(万民平等)」、国境防備の要を説いた「海防論」、貧富の格差を是正する共産主義思想に通じる「禄高改正論」、商業活動を抑えて農業を勧める「貴穀賤金、抑商勧農」思想、厳罰主義が一般的だった江戸時代に主張した「寛刑主義」などがあり、近年ではさらに「エコロジストの先駆者」としても再評価されています。
蕃山の数ある功績の一つに、百年先を見据えた土木工事の達人、「土木巧者」としての名声があります。例えば、明治時代に人造石「長七たたき」を発明し、大規模な土木工事にも傑出した才能を示した服部長七が、ある日蕃山の手がけた工事を見て感嘆したという逸話があり、彼の政治が目先の事ではなく、百年先を視野に入れた遠大なものだったという事がわかります。
また、工事の際の労務管理も、民を困窮させないことを第一義に考えて細やかな配慮をしていたそうで、民の生活の安定こそが政治の基本であるという蕃山の仁政思想がここにも表れています。
他にも、洪水や飢饉時には損得を考えずにとにかく一人でも助けようと民救済に尽力しましたし、厳しい刑罰が当たり前だった時代に獄制改革を行い、さらには無骨で粗野だった日本武術(特に剣術)に哲学性を付与したという功績もあります。
それぞれ一つの記事にできるほどの内容を含んでいるんですが、あくまで本記事は「武士土着論」をベースに書いていますので、彼の他の思想や功績については別途機会を改めて書きたいと思います。
2.近代人として近代社会を批判した人
熊沢蕃山は江戸時代に生きていながら、「民主主義」「万民平等」などの近代的思想の萌芽が見られます。健全な近代人の視点から、江戸時代の近代への移行プロセスに異議を唱え、当時絶対的な権勢を振るっていた徳川幕府に対してさえも、過ちを正すためには怯まずに真っ向から批判しました。その結果、先ほども書いたように不遇に満ちた後半生を強いられたわけですが、そんな逆境生活の中で深く内省した結果、己の安息を見い出し、後世のために書物(集義和書や集義外書など)を著しました。
明治期の大歴史学者、吉田東伍は「自由思想」をもって物事の本質を徹底して見据えた蕃山について、「(江戸時代)三百年の第一人者なり、熊沢を知らずんば徳川武家を語るべからず」と断言するほど心服していました。
幕末屈指の開明思想家で、高杉晋作も傑物として認めた横井小楠も同様に「武家に成り候て織田信長天下を治るの心あり。事を成す体の人熊沢了介此の人一人なり。此の人国を治る規模甚だ遠大なり、此の人に一言聞きたき事あり。其の他前輩に逢い、聞きたきと思ふ事なし」と言い、熊沢蕃山こそが日本の学者のなかでは語るに足る思想家だとしました。吉田松陰の恩師佐久間象山もまた、蕃山を「老師」と尊称で呼ぶ程高く評価していました。
1788年に刊行された著名学者の評判記『学者角力勝負附評判』には、その番付表の最高位の一人に熊沢蕃山(東)が据えられています。ちなみに西の最高位は新井白石です。
勝海舟も『氷川清話』の中で蕃山の事を「儒服を着けた英雄」と評し、「(蕃山は)奥底の知れぬところがある。どうもエライものだ。どうも新井白石よりは上だよ」として、先ほど示した『評判記』の著者の代わりに勝負を付けてくれています。
紆余曲折した人生を蕃山は歩んでおり、海舟も言うように非常に奥深く複雑で分かり辛い性格の人です。そのためなのか、私も学生の頃に歴史の授業で彼について習った記憶がありません。仮に習っていたとしても、10代の頃の精神で彼の思想を十分理解できたとは思えませんが、いずれにしろ江戸時代を学ぶのに熊沢蕃山という人物を欠くことはできないと思います。
彼に直接的または間接的に影響を受けた、誰でも知っているような有名人を少し挙げておくと、西郷隆盛・高杉晋作・吉田松陰・石原莞爾・東郷平八郎・夏目漱石・中江兆民・大塩平八郎などがおり、無名な人も含めれば数えきれない程たくさんいます。現代だと小泉純一郎元首相も当てはまるでしょう。
注意していただきたいのは、蕃山の思想は「時処位」によって柔軟自在に変わるものだということです。数学の方程式のように定型的な理論や哲学ではありません。彼は固定観念に支配されるような「格法」を嫌いましたから、100人が彼の学問を学んだとしても、その解釈の方法は100通りあります。それは、この世に一人として同じ顔の人が存在しないという、「無限の理」を踏まえた学問です。また一方で、陽明学の「万物一体思想」も受け継いでいますから、「一にして無限」の学問と言えるかもしれません。私はこのような観点から蕃山の学を「(本)性を尽し命に至る」という『性命学』と呼ぶこともあります。
蕃山は現在の日本人の精神を形作った、思想的淵源の一人と言えます。江戸時代にあって、近代人として近代に移行しつつあった江戸社会を批判し、そして後世の日本人に多大な影響を与え、その自由や独立を重んじる主体的思想から、「近代思想の原点」つまり「民主主義の原点」が彼を通して見えてきます。
武士土着論とは
前段落までは熊沢蕃山の人物や思想を簡単に説明しましたが、ここからは彼の主張した「武士土着論」について話を進めていきたいと思います。封建主義が当たり前だった時代に人間の平等を論じ、武士の帰農を説いた蕃山は、兵農分離によって進められた当時の都市集住化や経済至上主義という「近代」に対する懸念を表明し、その流れに飲み込まれて心身の主体性を失ってしまった武士の救済策を提示しました。それが「武士土着論」です。
当時の為政者には案を受け入れられるどころか、怒りを買ってしまったために下総に幽閉されて、自分の信念を社会で実行することは叶いませんでしたが、彼の意志を引き継いだ山田方谷が幕末から明治にかけて実践し、たくさんの武士を救済して多大な効果を挙げたため、その正しさが蕃山の死後約二百年後にようやく証明されました。
彼の自由や平等な精神に基づく主張は、まさしく主体性を持った「近代人」のものであり、ルソーやロックなどの社会契約説と通じるものがあります。
「人は皆天地の子孫なれば何のいやしきといふ物かあらん」
『夜会記』より
それでは具体的に「武士土着論」とはどのようなものだったのか、時代背景も考慮にいれながら説明していきます。
1.土着武士から鉢植武士への移り変わり
元々江戸時代より以前には、武士は土着して畑を耕して暮らしていました。自分の土地を持ち、普段は農耕で生計を立て、合戦がある時にだけ武器を取って戦場で戦ったわけです。
自分の食い扶持を他人に依存していなかったため、独立して主体的に生きることが可能でした。これを「兵農一体」と言います。
その後、豊臣秀吉の「刀狩」によって農民から武器を奪い、そして徳川幕府の江戸時代に入ってからは「兵農分離」が徹底化されて「士農工商」の身分制度ができ、武士は自分の土地を持たずに君主に仕えて俸給をもらう、専業軍人となりました。つまり現代風に言えば、江戸時代以降の武士は給料をもらうサラリーマンと同じ待遇になったという事です。
商業経済が中心となり、都市が発展する(都市集中化)につれて、武士も土地を離れて都市に居住するようになりました。太田錦城は、江戸時代に安定した生活の場を持たなかったお抱え武士のことを「鉢植武士」と揶揄しましたが、その一方で武士を土地から離したことで、彼らの反抗精神を削ぎ、太平の世をもたらしたと評価しています。
これによって下剋上の気風が削がれ、安定した社会が構築された、という利点がある一方で、武士は主君に仕えることを至上と考えるようになり、民百姓の大衆事情を軽視する傾向を生み出します。
江戸時代以前の「百姓=武士(農兵一体)」だった頃は、君主も民百姓に気軽に増税を課すことができませんでした。しかし、江戸時代になってからのお抱え武士は、生殺与奪の権利を主君に完全に握られていたため、例えば増税を行おうとする主君に反してまで民衆に同情して味方するような、気骨のある武士が必然的に少なくなっていきました。
また、太平の世が長く続いたため、戦国時代には当たり前だった自由・独立の気概に溢れた武の精神や軍事技術も軽視されるようになり、その結果幕末には薩長の軍と真っ向から戦う気力もなくなるほどに武士は萎縮・頽廃しました。この主君に対して絶対服従的な考えは、山本常朝の「葉隠武士道」にも色濃く見られます。ちなみに、三島由紀夫が深く傾倒した武士道はこの「葉隠」です。
よく時代劇でも、悪代官の下で働いているお抱え武士たちは、最後まで主君のために戦って果てますよね。これは、主君がどんな奸物であろうと、自分を養ってくれているんだからと盲目的に忠誠を誓った結果です。善悪の判断はあくまで主君が行うのであって、その主君に仕える武士にとって自由で主体的な判断力は必要とされていません。ここからなぜ徳川幕府が熊沢蕃山のように自由や独立など、個人の主体性を重んじる思想を危険視していたかがわかるんじゃないでしょうか。
江戸時代以降に盛んになった商品経済主義に対して蕃山は「四海の困窮は、財用の権の商にくだるより起こる事あり」と否定的に見ていました。そのような貨幣中心の江戸社会に生きていた武士が精神的・社会的に窮乏し、生計的にも自立性を失っていくという現実に対する鋭い社会批判の下に生れたのが「武士土着論」です。
同時に彼は商業経済や都市集中化の弊を指摘し、自然経済への復帰も説きました。つまり、蕃山は「近代化」していく江戸社会に対して異議を唱えた、「反近代」の精神を持つ代表的人物、という見方もできます。
しかし、彼は「近代」そのものを否定していたわけではなく、自らが近代思想を持った「近代人」であったがゆえに、到来する社会の矛盾や問題点をいち早く察知することが出来たため、その来たるべき歪みを前もって矯正するために反近代的な思想にも理解を示した、懐の深い人物だったと私は見ています。ですから、個人的には蕃山の思想が古臭くて時代遅れだとは微塵にも感じません。それどころか、私の目指している中道を体現しているように見えます。
繰り返しになりますが、今回の記事の主旨はあくまで歴史的観点から蕃山の「武士土着論」の正当性について迫ってみることです。彼の思想が「自給自足」や「地産地消」と大きく異なっているわけではありません。
2.熊沢蕃山の「武士土着論」
それでは「武士土着論」について、具体的な説明に入りたいと思います。この考えは、兵農分離以来の「鉢植え」的存在であったお抱え武士を、農業という生産の場に戻し、鎌倉武士のように食料を自家調達可能な状態に立ち帰らせて、その生活を安定させることを狙ったものです。ですから、「兵農一体」の「鎌倉武士道」と言い換えることもできるかもしれません。
蕃山の言葉に次のようなものがあります。
まづ人の初めは農なり。農の秀でたる者に、たれとりたつるとなく、すべて物の談合をし指図をうくれば事調(ととのお)りぬる故に、其の人の農事をば寄合てつとめ、惣の士が談合しひきまはされて諸侯出来ぬ。又諸侯の内にて大いに秀でたるあり。其の徳四方へきこへ、をのをの及ばざる所は此の人より道理出る故に、寄合てつかねとし、天子と仰ぎたるものなり。
『集義和書』より
武士の農をはなれて、城下にあつまり、足軽中間までも城下に住居するは、治乱ともにあしき事なり。むかしは士たるものも農を本とし、在所を持て住居せり。才あり徳有るもののみ選ばれて、京師にも国都にもよび出され、其官職に付きたる禄を受けて仕えるなり。子孫はそのままに在所にをれば、官職を辞すれば、本(もと)の農に引き込むなり。故に浪人といふもの有るべき様なし。
『集義外書』より
天下の事は農業より大なるはなし
『孝経小解』より
つまり「武士土着論」とは農業が基本となっています。百姓として農に携わり、其の中から公務の才に秀でていると思われる人達を話し合いで決め、武士・大名など政治の役職に取り立てていきます。しかし、蕃山も注意書きしているんですが、仮に選ばれて武士や大名になれたとしても、元は皆百姓だったわけですから、才能の上下や立場で毀誉褒貶を判断してはいけない、としています。これらの蕃山の考え方は、現代の民主主義選挙や万民平等に通じるものがあります。
次に、武士が帰農する社会的メリットを、蕃山がどのように考えていたかを説明します。
下記の四項目を主な利点として挙げています。
● 武士のセーフティネット-浪人の削減
武士の帰農の目的は、次の『理論の実践者、山田方谷』でも詳しく説明しますが、武士の生活・生計の受け皿「セーフティネット」としての役割にあります。務めを果たし終えたら、帰郷して百姓に戻り、田畑を耕すことで生活の糧を得ます。当然、浪人(無職者)が世の中に溢れる心配もありません。
● 倹約しつつ国防力・兵糧維持が可能
俸給で生活する専業武士を少なくできるため、平時の治安維持費を削減することができます。そして普段から畑仕事を行う事により、体も頑健になって有事に十分な働きができるようになります。また、武士も農業生産に参加することによって、百姓の年貢に頼らずに食料を長期間に渡って安定して生産・確保することも可能です。
ちなみに、右の画像にあるように「男塾」でも来たるべき飢餓の世に備えて、自給自足を原則として生活しています。
● 国民の精神性・消費生活態度の改善
農兵という自活者としての誇りがあれば、日本人の精神が引き締まり、足る事を知って財を散ずるような風潮もなくなります。蕃山によると、江戸時代の武士は体が弱くてすぐ疲れ、武士としては役立たずだと見ていました。ちなみに、彼は単なる学者でも思想家でもなく、武術にも長けていましたので、江戸時代の武士に対する評価は傾聴に値すると思います。
● 民百姓の負担が減る
奢り高ぶらずに倹約質素に暮らしていれば、無駄が生じませんので、十分の一の年貢でも政(まつりごと)に足りるとしています。武士、百姓と階級が分かれた結果、お上が武士に扶持するようになり、その分重い年貢を百姓が課せられるようになったとの事です。
次に、蕃山の「武士土着論」は否定論も沢山あるのですが、一方で肯定した人たちもいたので、ここで紹介したいと思います。
まずは、寛政の三奇人の一人で、蕃山の『海防論』の思想を引き継ぎ『海国兵談』を著した、林子平です。国境防衛の要を説いた林子平も蕃山同様、幕府に危険人物扱いされ、自分の人生を賭けた書物も発禁処分を受けた結果、貧窮生活を余儀なくされ、生涯不遇の人生を送りました。彼のお墓は仙台に安置してあり、よろずにとっては地元の郷士でもあります。
次は幕末維新期の探検家で、蝦夷地を探査し「北海道」と命名した、松浦武四郎です。彼も隣国ロシアからの脅威を感じ、子平同様に国境防衛の要を説きました。もしかしたら、北海道で「屯田兵」が生まれたのは、松浦武四郎の存在も影響しているのかもしれません。そして近代日本画の巨匠で、武四郎に感化を受け兄事し、彼の精神を受け継いだ富岡鉄斎も蕃山を肯定していました。
次の段落で詳しく書きますが、土着論の実践者にして、河井継之助が「神の如き儒者」と尊信した山田方谷もそうです。ちなみに、河井継之助は山田方谷の弟子で、自国の民衆を救おうとして叶わなかったため、最後の武士道を世に知らしめて散った北越の英雄として名を馳せています。
詳しくは知りませんが、他にも荻生徂徠や太宰春台、藤田東湖なども蕃山の支持者だったようです。
一方で土着論が多くの人達に否定された理由は、貨幣経済が進行した江戸時代において、蕃山の主張が復古的・時代錯誤と見なされたからのようです。現代においても、そのような考えが主流だと思います。私にとって「土着論」はあくまで、現代の武士であるサラリーマンのセーフティネットとして考えている、という事に留意していただければと思います。決して社会全体を、貧しい農本主義の自給自足国家にしたいわけではありません。
3.理論の実践者、山田方谷
江戸時代初期の頃に提唱された蕃山の教えは、武士のリストラが現実味を帯びてきた、約二百年後の幕末から明治にかけて、彼に深く私淑した山田方谷によって実践され、その真価が発揮されました。方谷は帰農推進により藩の財政を救うのみならず、明治の世になってからは元武士たちをも救いました。
方谷は松山藩主板倉勝静に藩政を託され、大胆な施策で上下節約、借財整理、殖産興業、紙幣刷新、軍制改革などに優れた手腕を示した、評判の経世家でした。松山藩は貧乏藩で実収三万石しかないにも関わらず、大阪の商人からの借財が十万両もあり、財政破たんの危機に直面していました。(借金前提で国家予算を組んでいる、どこかの国とイメージが被りますね)藩存亡の危機の時、方谷は藩主にも粗衣粗食に甘んじてもらうなど、極端な緊縮財政と産業の振興で負債を全額償却しただけでなく、十万両の余財をも新たに生みだしたと言われています。
そんな優れた経世家としての名声に惹かれ、長州藩の久坂玄瑞、長岡藩の河井継之助らをはじめ、他藩より視察に訪れる人たちが後を絶たず、実務的経世家として蕃山とその治績が似ていたため、方谷は「小蕃山」と称されました。
しかし、もちろんトントン拍子で事が運んだわけではありません。方谷が推進した「武士土着論」は、当初藩士たちの激しい憎悪や反発を生みました。しかし、明治維新が起きて武士の俸給が一切無くなると、他の藩士は生計を自ら立てられずに困窮の一途を辿りましたが、方谷によって帰農させられた武士たちは、与えられた土地から自給自足を行い、中にはそれなりの財産を築いた人もいたそうです。後に、農家になった元武士たちは、方谷の時代の先見性に深く感謝したと言います。
郷里の偉人として、陽明学者山田方谷を尊敬した留岡幸助の日記には、以下のように書かれています。
私の国に方谷山田という漢学に長じた有名なる経済学者がありまして、藩中に貧民士族の多を憂ひ、此等の者を助けんとして在宅を申し付けました(在宅とは田舎にやりて田を耕し、牛馬を牧畜させて、貧民士族を救ふことです)。然るに小人なる士族は、山田を見る事敵讐の如く、或る者は嘲り罵り、或いは退け、一時は山田先生の所置を悪みて憤りを飲みて、不承不承在宅致しました者が多くありました。然るに、時しも御一新の時に当たり、徳川の政府は倒れ、王政復古即ち封建政治は疾たりて、群県の政治となりました。此の時在宅せし人々は、家に穀物あり、小屋には牛馬の繁殖するありて、相当の身分のものとなり、他の士は旧主君離れ、ちりぢりばらばらになる時に際しても、少しも狼狽せずして農業を務めて安心に暮らし、遂に山田先生の卓見なることを初めて感じ喜んだという話を、私の小児の時、近隣の老人よりちらちら聞いたことがあります。
『留岡幸助日記』第一巻より
このように、「土着論」とは決して荒唐無稽な話ではなく、万が一のセーフティネットとして機能することが歴史上証明されています。注意しなければならないのは、決して経済やお金の損得のためだけに、方谷は武士を帰農させたわけではありません。
山田方谷という人は、豪傑河井継之助の師でもあり、自信家だった彼ですら死ぬ直前まで神のように尊信し続けた、という程の徳のある人です。藩の財政が逼迫し、困窮するであろう下級武士たちを憐れんで、彼らを救うために行った政策なのは明らかですし、結果的に財政負担も軽くなりましたけれど、それは二次的な理由に過ぎません。
まとめ
以上で、江戸時代の武士を窮乏から救った熊沢蕃山の「土着論」についての前半部の考察を終わります。蕃山は兵農分離によって、藩主や藩という組織に経済的・全人格的に束縛され、身動きが取れなくなったお抱え武士に対し、主体的で自主独立の生き方を提案すると共に、生活を保障するセーフティネットとしても「土着」の意義と必要性を示しました。それによって、他人まかせの人生観の反省を促す契機にしたかったんだと思います。
この考えは、先行きの見えない私たち現代人にとっても大いに参考になります。したがって後半部では、主に現代人を救うセーフティネットや、そこから培われる健全な民主主義について考察したいと思います。
つづく