封神演義の登場人物と儒仏道に関する考察
ここでは、学問(主に儒教や道教)を通して子供の頃に読んだ漫画『封神演義』に登場する人物を思い起こされることが多かったので、そこから気づいた事をいろいろ書いてみたいと思います。『封神演義』は、10代の頃に週刊少年ジャンプの発売を毎週楽しみにしていたくらい、好きだったマンガです。当時は何も考えず(わからず)に漠然とストーリーを楽しんでいましたが、現在は異なった印象を持っています。
多くの本を読んでいるため、どの登場人物がどの書物に書いてあったかなどの詳細を覚えているわけではありませんが、そこはご了承ください。
封神演義の起源
マンガに書いてある内容を参考にして書くと、『封神演義』とは紀元前1100年前ぐらいに起こった殷周革命を元にした中国の古典小説のことです。実際にお話が書かれたのは明の時代で、日本で言えば室町幕府の中期から戦国時代を経て江戸時代の初期の頃にあたります。当時の大衆小説、例えば『武王伐紂平話』や『春秋列国志伝』などをベースにして、道教や仏教のエッセンスを加えたのが『封神演義』だそうです。
道教とは、老子や荘子などの教え(老荘思想)や生命を求道する神仙のことです。物語中に道士や仙人がたくさん登場するのも、神仙の影響が濃いためだと思われます。それと漫画を読む限りでは、儒教の影響も多分に感じられます。仏教に関しては、その影響が物語中のどこに表れているのか今一はっきりしませんが、道士が座禅を組んで修行している風景は何となく仏教的です。
ちなみに、この明の時代には、当サイトでたびたび話題に出てくる学問の一つ『陽明学』が王陽明によって興りました。儒教としては随分後になってから生まれた学問です。
伝説を元にしたストーリー
先も述べたように、殷周革命を描いた小説ですから、その当時のお話が中心になります。どれくらい昔の出来事なのか、いまいち実感が湧かないと思いますので、2000年前に誕生した孔子・ソクラテス・キリストの時代を起点にしてみると、その時代よりもさらに1000年以上昔の事となります。当時の孔子たちにとっても、すでに殷や周は伝説上の国でした。したがって、どこまでが史実なのかは疑わしい部分もあり、ストーリーは多分に脚色されているとみた方が良いと思います。
登場人物の紹介
ここからは、『封神演義』に出てくる登場人物の中で、特に後世の儒教・仏教・道教に何らかの影響を与えたと思われる人たちを紹介したいと思います。
1.太公望
主人公である太公望は、様々な伝説があって曖昧な部分が多く、実態がよくつかめていません。ただし、周の軍師として文王の子武王を補佐し殷の進攻を防いだことや、殷の紂王を牧野の戦いで打ち破ったという事に関しては、広く事実として受け止められているようです。
太公望は兵学書『六韜(りくとう)』を著したとされています。しかしこれも、真偽の程はわかりません。100歳以上生きたといいますから、その当時の短い(であろう)平均寿命を考えると、なぜ彼が長寿の仙人(道士)として小説や漫画に登場したのか、その経緯が何となく想像できます。
彼は物語中でも軍師らしい発言を度々行っており、気づいた部分を下記に抜き出してみました。
- ● 敵を知ることが第一
- ● 大きな敵と戦う場合は頭を狙う
- ● 少数を多人数で叩く
- ● 各個撃破
- ● 農兵一体
- ● 十分な食糧・物資の確保
- ● 敵が圧倒的優位の立場にある場合はゲリラ戦が有効
- ● 兵を使っての戦闘は最後の手段(戦わずに勝つ事が最上の戦略)
私は兵学書である『六韜』をまだ読んだことはないんですけれど、上記の内容はその書物に書かれている内容を参考にしているんでしょうか?内容的に『孫子』と被る気がします。また、ゲリラ戦にも言及していますが、古代の中国にも似たような戦法があったんでしょうか?ヒットアンドアウェイによる戦い方は、キューバの革命家チェ・ゲバラがオリジナルだと思っていたんですけれど。
それと、ストーリーの後半になると、魂が分かたれていた太公望(右上)と王天君(左上)が再び融合することにより、本来の姿である「伏羲(ふっき)」となって復活します。伏羲(トップのイラスト参照)は、紀元前3000年前の古代中国神話に登場する伝説上の帝王で、『易経』には天地の理(ことわり)を理解して八卦を描いたとか、民に魚釣りを教えたなどの伝説が残っています。
また、漫画ではラスボスとして登場する「女媧」と、その彼女に敵対する「伏羲」は、人類の始祖として描かれています。もちろん、現実には年代が全く異なる太公望と伏羲が同一人物であるはずがありませんが、漫画家の藤崎氏は何かそれらに共通点を見い出して、両者を同一人物と見立てたのかもしれません。例えば、本編で太公望がよく魚釣りをしている描写があったのも、今考えると伏線だったんでしょうか。
2.姫昌(文王)
次に、殷王朝に仕える西岐の諸侯姫昌(文王)は、川釣りをしていた太公望の才能を見抜き、彼に治者として今後何をなすべきかを諭され、殷討伐の軍師として彼を西岐に招くことによって殷王朝を滅ぼし、新たに周を興す道筋が作られました。「文王」は周王朝の創始者である「武王」の父に当たります。
四大諸侯の二人、九侯と鄂侯が暴君紂王によって惨殺された時、姫昌は主君を諫めたため、それを咎められて7年間羑里(ゆうり)に幽閉されました。この捉われていた時期に彼は、太極や陰陽五行で有名な『易経』を著したとされています。不遇な人生を歩んでいるにも関わらず、挫けない姫昌の不屈の態度は、『易経』に深い造詣があり、彼と同じような不遇の人生を送った熊沢蕃山にとっても大きな精神の支えとなりました。
文王という名は、彼の死後にその子である姫発(武王)が諡(おくりな)したものです。後世、特に儒家からは武王と並んで聖王として崇められ、為政者の手本となりました。『易経』を著したのが真実だとすると、文王は相当の人物だったと思われます。
3.周公旦
周公旦は周を代表する非常に優秀な政治家で、兄である姫発(武王)の補佐をして殷打倒に尽しました。マンガでは気難しい理屈屋として描かれていますが、『論語』でお馴染みの孔子も深く私淑した程偉大な人物で、いつも彼が夢の中に出てきたと語っています。また、礼学の基礎を作った人ともされています。
4.姫発(武王)
父の姫昌(文王)が亡くなった後、太公望を軍師、周公旦を政治家として、軍政両面で周初代の王姫発(武王)をサポートしました。マンガでは女好きで軽薄な感じで描かれていますが、そのような好色の性格は人の上に立つ資質として考慮すれば、決して悪いとは限らないということを、政治家としても偉大な功績のあった熊沢蕃山が『源氏物語』の源氏を例に取って説明しています。好色という事はもちろん悪い面も沢山ありますが、良い方に考えれば人情に厚いとも言えるわけで、治者としては非常に大事な才能の一つだとのことです。「英雄色を好む」とも言いますしね。
蕃山は「至誠惻怛(しせいそくだつ)」の心を持たず、理屈先行で完璧主義の秀才タイプは人の上に立つべきではないと言っています。自分の信じる正しいと思う道を歩むだけでは不十分で、他者を惻怛する(あわれみいたむ)心が絶対必要だと強調しています。例えば、マンガに登場する周公旦は政治の実務家としては非常に優秀ですが、一方で気難しく完璧主義者であったため、彼自身その欠点を十分に弁えており、だからこそあえて自らリーダーとならずに姫発(武王)のサポートに回ったんだと思います。
5.紂王
紂王は、殷の第30代最後の皇帝です。残虐非道な政治を行い、周の武王に滅ぼされた彼は、言い伝えによればハンサムで文武に長けていたそうです。頭が良かったために、周りの人達が愚かに見えてどんどん傲慢になった結果、民に重税をかけ、佞臣を重用し、妾の妲己に溺れて日夜乱痴気騒ぎをするようになるまで堕落しました。妲己の言うことは何でも聞き入れ、「酒池肉林」という言葉も、彼らが肉を天上から吊るしたり、酒を溜めて池を作った事に由来します。漫画では仙女妲己によって紂王が乱心していくんですが、実際の所はどうだったんでしょうか。
また、紂王の親戚に箕子(きし)・比干という賢人がいました。箕子は好き勝手を行う皇帝に対して贅沢を止めるように諫言しましたが、まったく聞き入れられず、誅殺を恐れた彼は狂人の振りをして自らを奴隷の身分に落として難を逃れました。そして比干は、当時行われていた炮烙と言う残酷な刑罰をやめるように諫言したことで皇帝を激怒させ、「聖人の心臓には七つの穴が開いているという。それを見てやる」と言われ、心臓を抉り出されて殺されました。
蕃山が深く尊敬した伯夷という人も、殷が滅んで周になった後に自らの衣食住を敵国である周によって養われることを良しとせず、山に逃れて自ら餓死を選びました。これら箕子・比干・伯夷の三賢人は「忠」に生きたとして、儒教の経典で孔子と比較されています。
酒池肉林や炮烙は漫画でも登場しますので、興味のある方は読んでみてください。
後世、夏(か)の傑王や殷の紂王は暴君の代名詞となり、賢君だった堯(ぎょう)舜(しゅん)禹(う)と対比される形でよく名前が登場します。また夏の傑を滅ぼして初代殷王となった「湯王」は、周の「文王」「武王」と共に聖王と呼ばれました。
6.老子
漫画で登場する老子(上の図参照)は、何かを超越して眠ってばかりいる怠け者として描かれています。超然として「無」を求道する荘子とも異なり、私が想像する老子は俗世にも若干こだわりが残っている印象を受けますから違和感を感じますが、これはこれでアリだと思います。
『老子』という書物が後世に残っていますけれど、それを著したのは必ずしも個人とは限らないそうです。実際は複数の人達によって長年編纂されたものの集大成だと考えられています。よって、現実の老子がどのような人物だったのかは、多くが謎に包まれています。それを踏まえた上で老子の教えを一言でまとめると、「精神を平静に保ちつつ自我を抑え、素朴で余計なことは喋らず、柔弱で人の卑しむ位置におり、争わずに欲望を減じ、余計な知恵を持たずに作為をしない」ということでしょうか。
老子の思想は日本人の考え方にも大きな影響を与えているため、その一例をここで紹介したいと思います。日本柔術の始祖と呼ばれ、儒仏道を基本とし『老子経通考』を著した陳元贇(ちんげんぴん)もまた、道教(老荘思想)を最も深淵な思想として傾倒していました。ただし、日本には古くから「小具足・組討」といった柔術技も存在していましたから、彼を柔術の始祖と言い切ってしまう説には疑問も呈されていることを一応付記しておきます。
陳元贇の本当の功績は柔術の技法の伝授というよりも、「甲冑組討」として無骨だった日本古来の武術に深い哲学性をもたらした点にあります。例えば、元贇は門人たちに「此術(柔術)の理は柔(やわら)にして敵とあらそはず、しばしば勝たん事を求めず、虚静を要とし物をとがめず、物にふれ動かず、事あらば沈んで浮かばず、沈を感ずると云う、凡そ調息を要とす」という柔術の哲学を教授しました。
これは「柔弱は剛強に勝つ」や「善く士為る者は競はず。善く戦ふ者は怒らず。善く勝つ者は争はず」など、無為自然・柔軟自在の精神を旨とした老子の強い影響が感じられます。有名な「柔能く剛を制す」という言葉も、その起源が『老子』に由来しており、彼の教えが無意識ではあっても日本人の深層心理に根付いて今日に至っていることがわかると思います。
上記のコマを見ると、老子は様々な動物の口を借りてしゃべっています。これは、作者が万物一体(万物斉道)の考えを目に見える形で表現したかった結果なのかもしれません。また、太公望は老子に出会う前に自給自足で生活している人里離れた桃源郷を訪れていますが、その世界はまさに私個人が理想とする共同体です。
老子が桃源郷を不可侵のものとして外界の影響から守っていた理由は、異なった価値観が同じ大地の上で共存することの難しさを知っていたからだと思います。強者が存在するためには弱者が絶対に必要なように、平和思考の桃源郷の住人は彼等にとってカモ(弱者)にしか見えず、同じ大地に住めば桃源郷は遠からず蹂躙され支配されることは目に見えています。老子の教えは非常に重要な事を示唆している一方で、その教えを現実社会で実践していくには非現実的な部分が若干あることは否めません。
最後に、老子の言葉に「親しき者は語らず、語る者は親しからず」とあります。当サイトでは、いろいろ考察しながら好き勝手に書いていますけれど、その行為は自分の精神が未熟である証左だと思っています。本当に悟達した人であれば、あまり長々としゃべったり書いたりしないはずですから。そういう意味で、私は求道者としてまだ偽物の域を出ていません。
学んで感じた事を言葉で表現するのにも限界がありますし、己の更なる成長には論理や知識重視の学問と並行して、精神を収斂し高める実践的修養を行う時期に来ていると感じます。「智」と「精神」の調和なしに、根源の探究や中道の体得など及ぶべくもありません。
まとめ
私が学んでいる儒教や道教の教えと、漫画『封神演義』の関連性をここでいくつか挙げてみました。小説が書かれたのは今から500年くらい前の明の時代ですが、小説の元となった殷周革命が起きたのは今から3000年以上も昔になります。ある程度の記録が残っている2000年前の孔子の時代から考えても、1000年の時間の開きがあることになり、あまりにも時代がかけ離れているので小説と史実の間には大きな乖離があることは理解しておいた方が良いかもしれません。
例えば、太公望にした所で漫画では若い青年の姿ですが、実際は70歳の老人(参考図右)です。
それと、今回の記事は以前学んだ記憶を頼りにしながら書いていますので、情報には不正確な部分があるかもしれませんし、下記の紹介書籍も参考程度ということに留意してください。本記事に書いた内容が下記の書籍でそのまま言及されているかはわかりません。また、太公望が書いたとされる兵書『六韜』を私は読んでいませんけれど、もし興味があれば値段も高くないので手に取ってみてもよろしいかと思います。
おわり