以前、『第2回 夢の中の真実-普遍の真理へ』のページの最後の方で、一見無価値だと思われても実は価値があるという「無用の用」について話したことがあります。その時、他の逆説的な言葉の中にも、もしかしたら真理を示す重要な意味が含まれているんじゃないか?と感じたので、さらに思考を重ねて「人生の無意味の意味」についても考えることにしました。
なぜ人生の無意味について考えようと思ったかと言うと、「無用の用」のように生きることの無意味を自覚することによって、逆にそこから大元の気、つまり元気の源が発掘できるんじゃないかと思ったからです。元気とは読んで字のごとく、陰陽に分かれる以前の太虚の気に由来すると思うので、その気の根源を探究することによって陽の力を活性化させ、陰の力が強すぎる私の性向を中和し、陰陽のバランスを取ろうと考えました。
何も努力しなくても自然と陽に傾く、小さな子供や元から元気な人には無縁の話かもしれません。しかし、物欲や金銭欲が少なく、普段から陰に傾く傾向が強い私は、陰陽の根源(太虚)に至り、必要に応じて陽や陰を自在に操れるくらいにならないと、後々問題が出てくると感じています。それがつまり、本サイトで何度も言及している「無限」や「中道」の体得に繋がります。
ここで一応、陰や陽には元々上下や善悪の区別がないことを、はっきり書いておきます。一般的に明るい陽の属性は好まれ、暗い陰の属性は遠ざけられる傾向にありますが、本来はどちらも世の中には必要な概念です。大抵の人はどちらかの性質に偏る傾向があるため、そこから歪みが生じ様々な問題が発生しています。現代社会は物質主義・技術主義・功利主義・資本主義など、外に意識が向かうような陽の発想が主流を占めており、それによる病みは非常に深刻なものがありますけれど、ここでその問題は論じません。ちなみに、江戸時代は鎖国政策や質素・倹約の風潮など、社会全体としては陰の傾向が強かったのではと思われます。
私の学問や修練を井戸掘りに例えてみると、地面を掘って水が出てきたまでは良かったんですが、まだ掘り具合が不十分だと感じています。未だ井戸として活用できる程十分な水が確保できていません。ですから、自省と並行して注意深く井戸を掘り続ける必要があります。例えば陽の力を活性化させやすい陽明学は、自分には適切な学問だと思っています。しかし、それでも何かが個人的に足りないようです。
また、「人生の無意味の意味」の考察については、自分でもよくわかっていない部分が多く、言葉で表現しようとすると難しく感じるので、今回の記事では触れていません。ここでは考察の過程で思い付いた事だけをまとめています。
弓術の視点から人生哲学の考察
最初に、弓術をベースに構築した人生哲学について書いてみたいと思います。これは大橋健二著の『新生の気学』に書かれている弓の逸話を元にしているんですが、それを自分なりに理論付けて解釈したものとなります。弓術と言っても別にスポーツの弓道とは一切関係はなく、今まで弓を扱った事もなければ触ったこともありませんので、あくまで哲学的観点から論じていきます。
まず、実際に矢を放つには弓や矢などの道具を一通り揃えることが大前提となります。もちろん、それに加えて射る対象物の選定、そして弓を正しく引けるだけの心身の強さや技術なども必要です。それら道具・知識・技術・精神・心・行動の全てが一つになって初めて、矢を正確に目標に向かって放つ事ができます。
それでは、弓を射る道具や行為について、一つ一つ哲学的にどのような意味合いを持つのかを考えてみたいと思います。
1.弓の本体部分-心や志の大小を象徴
木で出来た弓の本体部分は、哲学的に言うと心や志の大小を表しています。良い材質で作られたサイズの大きい弓は矢を遠くまで飛ばすことができますし、精密な射撃も可能です。したがって、心や志が大きければそれだけ大きな働きをすることができるという事を示唆しています。ちゃんとした道具を揃えることは基本中の基本と言えます。
2.弦の張り具合-気や精神の収斂度を象徴
次は弦の張り具合ですが、これは気や精神の収斂度を表しています。弦が弛むということは、人間で言えば気や精神が弛んでいるということです。これでは矢を放ってもまともに飛ぶことはなく、道具としても人としても役に立ちません。
よって、弓の弦はピンと強く張っている必要があります。内側に引っ張ろうとする弦の力(陰の力または収斂)と外側に広がろうとする弓本体の力(陽の力または発散)が均衡状態を保っていることが非常に大切です。この弦の緊張状態を保つことによって、弓は矢を正しく放つことが出来、人に例えれば爆発力を持った行動に移すことができます。
ただし、いくら精神(弦)が強くても、心や志(弓)が小さければ大きな仕事はできません。また弓本体の材質が悪ければ、引いた途端に折れてしまう可能性もあります。陰と陽は二つで一つなので、どちらか一方だけでは成り立たたないことを常に意識する必要があります。逆の性質を持った力が、お互いに緊張状態で均衡作用し合っていることが重要だと、この弦の例は示しています。
3.矢-収斂した気の力を外に効果的に発散・発揮する手段であり象徴
当然ですけれど、矢のない弓では何の役にも立ちません。弦に蓄えられた力、つまり収斂した精神や気の力を効果的に矢に移す(伝える)ことで、目的の方向に勢いよく真っ直ぐ飛んでいくことができます。この矢の推進力は、智・武・気・心などその人が今までに培ったすべての努力が込められた象徴であり、これは多くの場合外部の目に見える形で発現するので、その結果や効果は他者でも確認することが可能です。
4.矢の照準を合わせる行為-時・処・位の象徴
弓矢の道具が揃えば、次は射る目標の特定と絞り込みを行います。そして適切な時や場所を選びだし、その時の状況が適切かどうかを実行前に確認しなければなりません。この時処位の重要性に関しては、大塩平八郎と高杉晋作の事例を参考にするとわかりやすいと思います。大塩平八郎は乱を起こしてたった半日で失敗しましたが、一方の高杉晋作はわずか70名の志士を引き連れて明治維新の先陣を切りました。この違いがどこにあるのかを考えていきたいと思います。
大塩と高杉は両者とも陽明学を学び、文武両道でその大胆な行動力には非凡なものを持っていました。結果だけを見れば、大塩は乱に失敗し高杉は成功したわけですが、才能そのものに差は見受けられません。どちらも英雄・豪傑の気質を備えています。問題は、適切な時・場所・状況・立ち位置を把握した上で、行動に移したかどうかの違いだけだと思います。
高杉晋作が行動を起こした時は、ちょうど封建制度が疲弊して時代が新たな風を求めていた時期です。それが追い風となって少数の無謀と思われる作戦でも成功できたんじゃないかと私は感じます。しかし、大塩平八郎の方は当時まだ江戸幕府が比較的盤石でしたし、本人でさえ機が熟していないのを百も承知の上で、困窮した民・百姓のためにあえて乱を起こしましたから、負けて当然の戦(いくさ)だったと思います。
両者に対する後の世間の評価も全く異なり、高杉は維新回天の原動力を作ったとして英雄になりましたが、大塩の方は民衆からは慕われた一方、佐藤一斎や二宮尊徳など多くの同僚や著名人からは犯罪者として徹底的に非難・批判されました。
現代でも大塩の評価が二分しているのを見る限り、例え似たような動機で行動を起こしたとしても、時期や場所、事の成否が異なることによって180度違った世間的評価になるという良い例だと思います。勝てば官軍的な一方的視野で人物や行動を評価すると、物事の本質を見誤る可能性が高くなります。
5.弓を引いて矢を放つ動作-心の強さ(意志・覚悟)を象徴
最後に、実際に弓を引いて矢を放つ動作がなければ実際の効果も期待できません。これは、人の心の強さ(意志や覚悟)を表します。今までは全て、自己修養や計画の立案など前準備が主でしたが、ここでやっと外部の目に見える形で実行に移します。一度矢が放たれたらやり直しはききませんので、十分な熟慮と覚悟を持った上で行動する必要があります。
6.弓術を参考にした人生哲学の注意点
ここまでをまとめると、「頑丈で大きな弓を準備し、弦をきつくピンと張り、その弦の力を効率的に伝えられる矢を準備し、目標に向かって照準を合わせ、弓を引いて矢を放つ」となります。これを人生哲学に翻訳し直すと、「大志を抱いて精神の収斂を怠らず、必要な時期を見定めて断固として行動し、凝縮した気を目標に向けて叩き込む」という所でしょうか。
全ての条件が揃えば、放たれた矢はちゃんと効果を発揮してくれるでしょう。しかし、弓術は元々狩りや戦争など、対象物を破壊する武術やサバイバル術の一つとして生まれましたので、弓の原理をそのまま人生哲学に応用する場合には注意が必要となります。北斗の拳のようなモヒカンが跋扈するような戦国時代ならまだしも、平和な時代の人生哲学としては不十分で、この考え方は真理の一部しか説明し得ていない事を十分認識しておく必要があるでしょう。
したがって、その不完全さを補完するのが次の段落で紹介する円通の哲学です。
円通-力の均衡と調和
まず、いきなり円通の話に入る前にこの世を支配する真理の一つ、円運動について書いておきたいと思います。この円運動は電子のような極小の世界から宇宙に至るまで、あらゆる場面で見られる普遍の現象です。例えば、中性子の周りを回転する電子、地球の自転や公転、果ては銀河でさえも回転している現実を考慮すれば、自明の理だと思います。
ここで疑問に思うのは、なぜ円でなくてはいけないのか?ということです。三角形や四角形では駄目なんでしょうか?例えば、三角形は角が三つで、四角形は角が四つあります。そうやって角がどんどん無限に増えていくと、最終的に「円」になります。円には角がない、つまり角が立ちません。ここに何か人類にとって重要な示唆が含まれているような気がしてなりません。
ですから真理の一端は円運動にある、というのが私の説です。
ちなみに、円運動の何が素晴らしいのかと言うと、摩擦がなく外心力と内心力の均衡が取れている限りずっと回転し続けることが可能だということです。この調和の取れた持続性のある運動は、そのまま人生哲学にも応用できると思います。
最初に説明した弓理論が不十分な理由とは、つまりこの円運動の概念が含まれていないことによります。弦の引っ張り合い(作用と反作用)しか説明できていませんし、常に緊張した関係のため、いつかは張力に耐えきれずに糸が弛むか切れてしまいます。ここに何か、私たち人類の過ちや勘違いを間接的に教えてくれているような感じがしています。最初から糸の切れることがわかっているのに、自分ではどうしようもないからと諦め、毎日過剰な努力を続けて生きている、現代人の空しい競争行為を私は連想します。
例えばもし、星同士がお互い近くに位置し、円を描かずに止まったままだとすれば、質量の大きい星に小さな星が引き付けられて、いずれは衝突するでしょう。しかし(楕)円運動であれば、適切な距離と速度を適宜変化させることで周回軌道から外れずに、大きな星の周りを小さな星がぶつからずにずっと周回し続けることは可能です。外心力(陽)と内心力(陰)の均衡が崩れたり、何らかの外的要因がない限り、星同士が激突したり離れたりすることはまずありません。
当サイトでもたまに出てくる「円通」という言葉は、この世の真理が円に通じることに由来しており、元々は仏教の「大円鏡智」という言葉から来ているようです。私は別に意識せずに使用していますけれど。
もう少し具体的に円通の定義について例示して説明しますと、「智が円通している」と言えば、その知識や技術が人の生活に有用で、総体的に持続性のあることを意味します。例えば、原発のように放射能の処理も満足にできないような技術では、智が円通しているとは言えません。また、原発に限らずいろんな技術や知識がひっきりなしに世に生まれていますが、個人的にはそれらの大半の智は円通していないと思います。特に一年、二年で廃れるような知識や技術などは、一時的なお金儲けには役立つかもしれませんが、本質的には何の意味もないと考えます。
私が学んだネット技術なども、その知識が通用するのはせいぜい10年程度です。だからこそ当サイトはできるだけ単純で汎用性のあるサイト構造にしました。仮に最新の技術を盛り込んでサイト制作をしたとしても、元々文字主体の内容ですから見た目にそれほど変化はないでしょうし、その分プログラミングなどの余計な労力が増えるだけで割に合わないからです。
また、学校の勉強に例えてみると、そこでの学問は大抵知識や技術の習得に終始しています。したがって、智・心・精神の円通ができていません。別に学校や教育制度が悪いと言っているわけではなく、そもそも社会全体がおかしいルールで支配されていますので、それ以前の問題だと思っています。主体的な意志や個人が存在しにくい環境で、微分・積分、科学の記号などを覚えた所で、心の成長には何の貢献もしません。それでも我慢して勉強したり、スポーツや格闘技を学ぶ事で精神の成長は見込めるかもしれませんが、心養を伴わない精神修練では、あまり意味がないどころかかえって有害になる可能性さえあります。
何が有害なのかと言えば、悪人でも精神を鍛えることが可能だと言うことです。精神修養自体は善悪を問わないので、良知を前提としない学問や訓練は悪人でも習得できます。これは、体育会系の学校やクラブでいじめや暴力行為が頻発する理由を考慮していただければ、わかっていただけるんじゃないでしょうか。軍隊まがいの教育を新入社員に強制して、昨今ニュースを騒がせているブラック企業も同様の問題を抱えています。
私個人が最終的に求めているのは、智・心・精神の全体的円通であり、それこそが中道や無限へ至る道です。これは一見簡単そうですが、シンプルだからこそ体得するのは難しいと思います。
まとめ
本来は「人生の無意味の意味」を考察して、そこから元気の源を探ろうと思っていたんですが、いつの間にか弓の哲学や円通の考察に思考がずれてしまいました。私は陰の気が活発な一方で、陽の気が不十分なため、この陰陽の釣り合いを取る手段を何とか見つけ出さない限り、中道の体得はできないと考えています。
人生のあらゆる働きは、気分・心持ちが活発であることによって成し遂げることができる。少しでも活発が不足すると、働く力が弱まるので、常に自省が必要である。誠意・養気・窮理など様々な工夫もまた、心気の活発によって可能となる。心気が活発でないのは、心に必ず何かの病理があってそれを妨害しているためである。そこで我が身を省みてその病原を探し出して、これを取り除き、さらに一層の工夫を用いた後、活発の効果に期待するべきである。もし、有効な工夫をせずに、すぐに活発を得ようとすれば、ただ心が騒々しく浮つくという弊害を生むだけで、万事にうまくいかない事態を生じさせるに終わる。
山田方谷「師門問辨録」『全集』より
昔から多くの人は陰陽の起源である『易経』を、単なる占いの学問だと勘違いして、軽く取り扱ってきました。古来『易経』とは、儒学を真面目に勉強する人達が最後に到達する至高の書とされてきたのを忘れてはいけません。その内容は奥深く複雑で、素人が安易に手を出しても火傷するだけです。
私自身、易経から陰陽の教えを参考にしていても、八卦などそれ以上の複雑な理論には現段階で深入りするつもりはありません。「陽気」と言えば肯定的な意味で明るい人、「陰気」と言えば否定的な意味で暗い人と安易に分別してしまうように、本来の意味から遠ざかった俗語が世間に溢れています。正しい知識を身に付けこのような先入観を取り除くことは、あらゆる問題の根本解決を考える際に非常に重要な事だと思います。
おわり