2014年度の農作業計画-自然農から有機へ
このページでは、今年(2014年)の農作業計画について書いていこうと思います。もう5月に入るのに、今から計画を立てるのは遅すぎるんじゃないか?と感じる人も多いかもしれません。実は別の計画を数か月前から立てていたのですが、突然その実行が難しくなったため軌道修正せざるを得なくなりました。
また、現在の私は数年前と異なり、知識や視野も以前と比較して広がり深化していますので、当時熱中していた自然農法でさえも、今は中立的な立場で考えています。
今後の方向性を見定めるためにも良い機会ですし、ここで一度私の農業に対する考えをまとめておこうと思いました。ちなみにトップページの写真は、今年有機農業や苗づくり等を学ぶために新たに購入した書物です。
今年の農作業は規模を縮小
先ほども言いましたけれど、今年は元々考えていた計画が頓挫したため、農作業の時間はできるだけ縮小することに決めました。どうしても植えておきたい作物と、勉強に益すると思われる農作業以外は極力控えたいと思います。
2014年に実施する農作業や学問に関しては、以下の項目を中心にして行う予定です。
1.長期に保存できる野菜や作物を植える
収穫したらすぐ食べないと腐ってしまうような野菜や作物を、今年はあまり植えないようにします。その代りにじゃがいも、サツマイモ、かぼちゃ、ネギ、唐辛子など長期保存できそうな食べ物の栽培を中心に考えています。今年のテーマの一つは「食料の保存」です。
2.今までに植えたことのない作物も植えてみる
また、あくまで畑に余裕があればの話ですが、過去に植えたことのないような長芋等も、試験的に植えてみたいと思います。
3.苗つくりと作物の保存方法を学ぶ
去年や一昨年までは種を畑に直播するか、苗を種苗店で購入して植えていました。しかし、将来の事も考えて一部の野菜はできるだけ苗つくりから始めたいと考えています。もう5月に入り、苗を作るにはちょっと時期が遅いですが、あくまで勉強として割り切って行います。それと、収穫した野菜や作物を干したり漬物にすることで、長期間保存する方法も学びたいと思います。
なぜ食料の保存を重視するのかと言うと、例えば去年収穫したサツマイモの半分にカビが生えてしまったからです。せっかく作っても、カビを生やしたり腐らせてしまったのでは意味がありません。夏や秋にはたくさんの野菜や作物が食べきれない程収穫できる一方で、冬には新鮮な野菜として食べられる品種が少ないのも以前から気になっていました。できれば、自分で育てた食べ物を一年中楽しみたいですから、食糧の保存方法を勉強することは大事な事だと思います。
4.武道を学ぶ
当初の計画では鍬で畑を耕しながら、剣道の練習でもしようかと考えていました。しかし、作業できる畑の面積が去年よりも減ってしまったため、今年は空手を通して肉体の鍛錬を補助的に行います。後半でも話すように、今後直面するであろうあらゆる事態(例えば災害等)を想定した場合、体を鍛えない事にはどうしようもありませんから。
5.有機農業の理論を学ぶ
最後に、今年は有機農業を基礎理論から学びます。というのも、今までの私の農作業は趣味の延長に過ぎなかったと反省しているからです。肥料や堆肥の施肥を感覚だけに頼って土に撒いていたため、そのせいかはわかりませんが原因不明の失敗をたくさんやりました。しかし、有機農業を本気で実践しようとなると、ある程度広い畑がないと労力に対して割に合わない作業となるので、可能な限り早く畑で実践できることを望んでいます。
有機について詳しくは、次項以降で書いていきます。
自然農法から有機農法への転換
道楽道サイトを立ち上げた当初に書かれた記事を読んでいただければわかると思うのですが、自然農法に関する記述が意外と多いことにお気づきになられたかもしれません。確かに当時の私は、「自然」に非常なこだわりを持っていました。その理由は、創始者の『福岡正信』さんや自然農で有名な『川口由一』さんの思想が、老荘思想や仏教に限りなく近いからだと後から気づきました。陰陽で言えば、陰に近い属性を持っており、生来陰に偏る傾向が強い私にとって、自然農法の哲学が魅力的に映ったのも当然だったと思います。
自然に対する現在の考え方は以前と多少異なってはいますけれど、福岡さんや川口さんのお人柄や信念には変わらない尊敬の念を抱いています。例えば、福岡さんの最後まで己の道を貫く姿勢は感銘を受けましたし、川口さんの温和で超然とした振る舞いを見れば、なぜ近年周囲から注目されているのかもわかります。(多分、ご本人の人生哲学から考慮すると、あまり世間に注目されて、お祭りのように神輿に担がれるのは望まれてはいないと思いますが)
いずれにしろ、現在は己の義や誠に沿って物事を判断しますので、以前のように『自然農法』を無条件で信じるようなことはなくなりました。近年自然農法関連の書物も数多く出版され、テレビでもたまに放映されるほど有名になりましたが、その一方でブームとして持て囃すような安直な風潮に対して、違和感も感じるようになってきています。
自然農法の教えは、決して綺麗ごとだけではありませんし、自然に対する思想や哲学にも個人的に異論があります。ですから今後は、良いと思った部分は受け入れ、納得できない部分からは距離を置くという、柔軟自在な態度で接することにしました。
1.自然農法を実践する際の障害
実際に自然農法をある程度の規模で行おうとすると、大半の人達は「土地の確保」という大きな障害にぶつかります。もちろん、家庭菜園程度の規模であれば、誰でも問題なく実践できるでしょう。しかし、自然農法に興味を持つ人の一部は、最終的に自給自足を目指すと思いますので、将来的にまとまった土地をどう確保するのかをあらかじめ考えておく必要があります。個人であれば、機械を効率的に活用することにより、数反規模の畑までだったら何とか自力で栽培も可能かもしれません。
ただし、一般人は基本的に農地を手に入れることはできませんので、近親者に農家がいて畑を借りれるような環境にあるか、それとも地目が原野や雑種地になっている土地を手に入れて、自分で畑に開墾する方法しかないと思います。仮に土地の問題が解決したとしても、今度は雑草や虫の問題があります。従来の慣行農法で生計を立てている農家から見れば、隣の畑で草を生やしながら虫と共生する自然農法に理解を示せる人は少ないでしょうし、長年農家をやっている人ほど、その傾向は強いはずです。
多くの自然農法関連の書物では、これらの問題点について深く言及していません。自然農法の哲学や、どうやって野菜や作物を栽培するのかといった書籍が主流を占めています。私が個人的に知りたいのは、現実的にどのようにして畑を手に入れているのか?ということです。何らかのコネがあったり人付き合いのうまい人であれば、ハードルは幾分低くなるかもしれませんけど、そもそも自然農法が近年脚光を浴びている理由の一つとして、現代社会の歪に対するアンチテーゼとしての期待感もあるからだと思います。つまり、社会では普通のサラリーマンとして生きていくことが困難で、世間的にアウトサイダーに位置している人達程まず興味を持つ分野だということです。現状の社会に対して深刻な不満を持っていない人が、わざわざお金にもならない農法に興味を示すことは少ないはずですから。
自然農法を趣味で小さく行うのならいざ知らず、自給自足や職業として考えているのであれば、よくよく考えた方が良いと思います。決して楽な道ではないことは断言できます。
2.意外と普通の人が多い?
それと、以前自然農法を実践されている方と少しお話をしたことがあるんですが、その時の印象から言えば意外と普通の人が多いのかな?という感想を持ちました。当初、世間から理解がなかなか得られない自然農法を行っている位ですから、皆強い信念を持った「変人」ばかりだという先入観があったんだと思います。
川口さんや福岡さんのイメージが強かったため、「自然農法に一生をかけている!」みたいに、信念や覚悟を持った人たちがゾロゾロいるものと思っていました。しかし実際会ってみると、意外と温和で常識的な方だったので、私の方が場違いに感じてしまったのを覚えています。
3.実践の難しさ
自然農法の理論についてもちょっと書いておこうと思います。実際、自然農法にもある程度の理論はあるんですが、それは定型的なものでもなけれでば数字で証明されたものでもありません。何年も農作業に携わった経験者だからこそ、状況に応じて臨機応変に作物を作ることができるのであり、初心者がいきなり自然農法を実践したとしてもうまく育てられる保証はまずないでしょう。極端な話、土の状態が良ければ技術や知識が不足していても、意外とうまく野菜や作物を育てることは可能です。
したがって、農業の経験の少ない私のような初心者は、多少難解でも理論がある程度確立した農法から始めるのが無難だと思います。学ぶ際に時間がかかりますけれど、結果的には基礎から始めた方が近道だと感じました。もちろん理論だけではなく、農業の経験やその経験に裏打ちされた勘も必要なことに変わりはありません。ただ、経験や勘などは一朝一夕で身に付けられるものではありませんし、例え理屈しか知らなくても、まったく無駄な勉強にはならないと思います。
4.自然の定義
そもそも自然農法の「自然」とは何を指すのかという疑問が私にはあり、自然は人間を生み出し育むという抱擁的で温かい面がある一方で、台風・津波・地震など人に厳しい面も存在しています。それ故に、脆弱な人類は自然の脅威から己の身を守るために文明を築いてきました。近年ではそれが行き過ぎて、多くの自然災害や人災を生み出す結果になっていますけれど、文明の発展そのものを否定するのは間違っていると思います。
また、皆さんもご存じのように自然は弱肉強食という側面も持っており、生物は毎日当たり前のように殺し合って生きています。人間も当然例外ではありません。自然農法関連の書物を読んでいて感じる事は、あまりにも「自然」を偶像視していると感じる事です。
もし、自然農法を単なる思想や技術論ではなく、一つの総合哲学として完成させるのであれば、自然や人の負の部分も真正面から見つめる必要があるのではないでしょうか。
有機農業を学ぶ具体的な理由
最後に有機農業を学ぶ理由について簡単に書いておこうと思います。
1.経験の少なさを学問でカバーする
前段落ですでに説明しましたけれど、私の場合は勉強(理論)で農業経験の少なさをカバーするのが現実的な戦略に思えます。子供の頃から農業とは全く縁のない環境で育ち、体の造りも農業に対する経験や勘も、一般の農家の方と比較して遥かに劣っているからです。そもそも個人的に理論や学問が好きという事を考慮すると、生来学者タイプの人間なのかもしれません。
もちろん、理論だけでなく経験が伴わなければ、実践的で総合的な技能に昇華できませんので、どちらも重要なことに変わりありません。農作業を何年か行っていれば、農業に対する経験的な技術や勘は自然と養われていくはずですが、それでは時間がかかり過ぎます。そこまでの足固めとして、理論重視の学問をすることにしたわけです。
2.将来農家を目指す際に役に立つかも
今の私の現状で農家を目指すことは、いろいろハードルが高く現実的ではないと感じています。しかし、最終的には畑の取得などで農家にならないとどうにもならないと判断する時が来るかもしれません。その時に前もって正しい理論を学んでいると、後の勉強時間が大幅に短縮できるので、迅速に話を進めることができるんじゃないかと考えています。
3.農業の今後の不透明性
ある方と先日、今後の農業についてお話をしたんですけれども、そこで農産業全体に対する行く末の不透明性を感じざるを得ませんでした。例えばこれからは、農業の世界も一般の企業同様に株式会社化していくそうですし、そうなれば個人の農家もどこかの企業に属して、サラリーマン化しないと競争社会でやっていけなくなる可能性があります。
生活費を捻出するためには何らかの職業に一時的にでも就かなくてはいけませんが、その時にはどうしてもシステマチックで実践的な知識や技術を習得している必要があります。それは農業でも同じですし、仮に農家を目指さなくても有機農法を理論立てて勉強することで、将来何かの役に立つかもしれません。
過去に『大規模小売店舗法』という法律が制定され、郊外での大型店舗出店に関する規制が緩くなり、結果多くの個人商店が廃業に追い込まれました。現在ではどこの田舎に行ってもシャッター街は当たり前のように見られる光景です。10代や20代の方はあまり実感が湧かないかもしれませんが、私が子供の頃にはバブル経済でしたから、当時と現在の景観の落差を見ると、「もののあはれ」的な無常観を抱くことがあります。似たような光景を、将来農産業でも目の当りにするかもしれません。市場原理の下で競争すれば、一般の個人農家が大企業に敵うわけがありませんから。
また、TPPによって今後農産物の流通がどうなるか予測が付きにくいという側面もあります。日持ちするような野菜や作物は、海外で生産するのが一般的になるかもしれません。鶏肉でさえブラジルのような遠い外国から輸入される時代なんですから。
後、一番危惧しているのは「植物工場」の現実味が増してきていることだと思います。実際それがどういうものか詳しくは知りませんけれど、植物の「工場」なんていかにも生命を軽視している呼び名ですし、その名称だけでもいろいろ潜在的な問題が潜んでいることがわかります。効率性やお金の損得だけで賛美している人達を見ると、もはや辟易するしかありません。
いずれはゼノギアスに出てくるソラリスの「ソイレントシステム」のように、「人間工場」まで作られるでしょうね。ちなみに、右の写真は人体実験で不要になった地上人や三級市民が人肉に加工されてベルトコンベアーで流れている場面です。ソラリスの首都に住むことができる一級市民でさえも思想的自由はなく、権力者に絶対の忠誠を誓うよう、遺伝子レベルで刻印処置を強制的に受けさせられます。もはや生命の尊厳なんて存在しない世界です。
この人肉工場はゲーム中でもショッキングなシーンとして有名で、シタン先生も缶詰の中身が何か分かっているのに、敢えて主人公たちに食べさせる鬼畜ぶりもここで存分に見ることができます。権力者にとって役に立たない反抗的な人間は、機械で挽肉にされて他の人の食糧にされます。私なんかもそんな世界に生きていたら、真っ先に挽肉にされる側の人間ですから、悪夢が現実のものとならないように、命をモノみたいに扱う風潮には今の段階から反対させていただきます。
動物や植物を工業製品扱いしておいて、人間の生命だけ例外なんてありえません。生物を生物として扱わなくなった時、人間自らも生物として扱われなくなります。「一方明むれば、一方暗し」の分別智を至上の知識だと信じて疑わない人達には、気づくのが難しい事なのかもしれません。もし、「植物工場」が総体的に見て本当に素晴らしい技術なのであれば、生命を侮蔑するような名称は変更された方が良いでしょう。
誰か私に山一個売ってくれませんかね?トーラ先生やバル爺のように、田舎の僻地に「男の隠れ家」でも作って余計な事に翻弄されずに生きたいです。隠遁者は大抵偏屈じじいと相場は決まっているものですが、私も年を取ればそうなるのかもしれません。
経済競争だろうと、武器を使用する戦(いくさ)であろうと、それを体験するのは一生に一度で十分ですし、私には「真理の探究」というやるべき事がありますので、ただでさえ短い人生をあまり意味の見い出せない争いで浪費したくはありません。
まとめ
ここでは、2014年今年に実行する農作業の計画について書きました。「苗つくり」や「食糧の保存」や「武道」などを学ぶ予定ですし、さらに去年や一昨年と比べて大きく変更した点として、農業の軸を「自然農法」から「有機農法」へ移すということも説明しました。トップページの写真には、これらの勉強に有用だと思われるお勧めの書籍を載せています。これ以外にも本は何冊か購入しましたけれど、あまりにも初心者向けだったり、土壌分析などの手法がちょっと古いと感じられる内容の書物がありましたので、それらは省きました。
自然農法の第一人者であるお二方、川口さんや福岡さんに対する尊敬の念は以前と変わりません。しかし、近年の自然崇拝的なブームに対しては非常に違和感を感じていますので、一度中立的な視点からもう一度自分の立ち位置を見直して、その意義を捉えなおす必要があるのではと思いました。
また、生物の遺伝子を平気で弄ったり、ニワトリや牛などの動物に飽き足らず、植物さえもモノ扱いして生産しようとする社会の流れを見ると、人は同じ過ちを何度も繰り返すのを宿命づけられているのでは?と感じざるをえません。
原発事故で原発や放射能に対する危険性を多くの人が身をもって知りました。しかし、原発は危険だとわかっても、遺伝子技術や植物工場などに同様の危険性が潜んでいることに多くの人は気づきません。例え気づいていたとしても、何もせずに見過ごしているのであれば、それは気づいていないのと同じ事です。なぜ気づきにくいのかと言えば、子供の頃から皆、勉強を縦割りで学んできたからだと思われます。知識が分野・教科別に断絶しているがために、垣根(かきね)を超えた、総合知識が身に付き難い社会環境があるからです。
知識や技術を横の繋がりとして認知できず、それ故に想像力が欠け、同質の危険性が存在していることにも気づかずに、問題の本質が見過ごされてしまっていると私は考えています。
おわり