弱肉強食という世の理(ことわり)
よく、ネットの掲示板なんかを見ていると、こんな言葉を見ます。
「世の中は弱肉強食なんだから、弱者は淘汰されるべき」
なるほど、もっともな意見だと思います。確かに自然を見ると、強いものが弱いものを食べることで世界が成り立っています(食物連鎖)。そのような現実を見ると、人間社会だって同じだろうという考えに至っても別におかしいことだとは思いません。
しかし、私は弱肉強食の考えは否定しなくても、行き過ぎた弱肉強食は否定します。なぜなら、そのような行為はいずれ自らの身を滅ぼすからです。
その理由は、人間は動物と違って知恵があるという事です。
知恵の力とその影響力
知恵は多くの物質的繁栄を人にもたらしてくれています。その知恵は自然にさえも大きな影響を与えるほどの力となっています。自然に意図的に影響を与えられる程の生物は、人間以外では他にはいないでしょう。
動物が自分達の本能のままに弱肉強食の行動をしても良いのは、この点にあります。つまり、自然の世界ではライオンや熊が小動物を狩っても自然を破壊するほどの影響はでないからです。だから、弱肉強食が許容されるんだと思います。
人が弱肉強食で行動すれば、自然を間違いなく破壊します。現にそうなっていますから、それが証拠となります。
しかし一方で、弱肉強食を否定してもいけないと思います。生物として生きていくためには、ある程度の競争は必要でしょう。
欲の制御
ここで人が考えなくちゃいけないのは、欲の制御です。
欲は人を行動させる力の源ですから、必ずしも悪いものではないと思います。問題なのは欲には限度がないという点です。資本主義には本来欲を制御するという考えがありません。儲けようとする欲が新たなビジネスを生み出し、人々の欲を商品やサービスと言う形で喚起、刺激してきます。それらの際限のない行き過ぎの経済活動を制限するために、規制や法律が存在しています。
しかしここで問題なのは、規制や法律はその国に住んでいる国民全員に適用されるということです。ですから放っておくと、あれも駄目これも駄目と、行動する自由がなくなっていくという弊害が生まれます。さらに規制や法律は、必ずしも正義や公平の下で作られるとは限りません。
欲には限度がないですから、人は愚かな過ちをたびたび繰り返してしまいます。過ちでも修正できる程度の過ちであれば問題はないのですが、深刻なのは修正不可能な破局的な過ちを人がしてしまった場合です。その時には過ちから学んでも手遅れとなるわけです。
技術の発展と資本主義と命の価値
人の知恵は今後、生物(人も含む)の遺伝子に本格的に手を加えて、さらに大きな段階に進もうとすると思います。商売だけを考えれば、必ずそうなるでしょう。虫が付かない野菜や、大きな実のなる木、生き物の病気を防いだり、寿命を延ばしたりなどいくらでも商売のタネになりそうなアイデアが出てきます。それの何が悪い?と思われるかもしれませんが、バタフライ効果としてまったく意図しない結果を後から生み出す可能性は大いにあり得ると思います。
人が死を遠ざけようとすればするほど、生からも遠ざかっていきます。命は一度失ったら二度と取り戻せません。だからこそ価値があり尊いのですが、際限ない技術の発展は命を複製したり、全く新たな生命を生み出そうとするでしょう。仮に簡単に命を複製したり生み出せるなら、人の命の価値はどうなるのでしょうか?
ウニは希少だから一個1000円の値段でも購入する人がいるでしょうが、海にたくさん生息している一尾のサンマを買う為に1000円を出す人はいないと思います。ウニとサンマでは金銭的価値が異なります。命の価値は金銭的価値と比例しているのでしょうか?現実には、私たちはウニの命とサンマの命では異なる扱いをしていますからそうなると思います。
同じ論理で考えると、自由に人の命を制御できるようになったら、人の命がサンマの価値と同じにはならないのでしょうか?生命を失う危険から遠ざかるほど、生命の価値を失うことになると私は考えます。資本主義の需要と供給の関係に倣えば、そうなって当然です。商売だけを考えている人には知ったことじゃないかもしれませんが、多くの人にとってはいずれ直面すべき大きな問題となると思います。その時にちょっとした過ちが、世の中の根底を覆してしまうかもしれません。自然や社会を破壊するのは容易くても、元に戻そうとなれば長い時間がかかります。
別に私は、技術の発展を否定しているわけではありません。物質的発展と同時に精神的発展も必要だと思ったから書きました。生命の定義をどうするのか?命に対して資本主義の考え方をどこまで適用していいのか?など並行して議論が必要だと感じます。できれば、リスクのある技術を扱う科学者の方にこそ、考えていただきたいと思います。そうすることで、将来間違った方向に世の中が突き進む可能性は少なくなると感じます。そのようにして経済活動が成り立つなら言う事はありません。
自然と人間社会の弱肉強食による比較
現在の自然による弱肉強食と、人間社会の弱肉強食の違いをまとめます。
自然による弱肉強食
1.共存共生の関係を維持している。
2.持続性がある。
3.それぞれの動物は本能で分別を知っている。
人間社会の弱肉強食
1.自然や生態系を破壊。
2.持続性がない。
3.必ず大きな戦争が起きる。
4.他の生き物の生活圏を平気で犯す。
生物最強の恐竜が絶滅したことが意味すること
肉体的には地球最強で、天敵もいないと思われる恐竜はなぜ絶滅したのでしょうか?弱肉強食の論理であれば、彼らは今でも生存していなければなりません。隕石の衝突説が有力ですけど、何が原因かは未だにわかっていません。仮に隕石が原因だったとしても、隕石は自然の一部ですから、恐竜は自然に淘汰されたことになります。この事実は、自然の中でも強い者が生き残るとは必ずしも限らないことを示しています。
現状の自由競争とは
個人的には別に弱肉強食の世の中でも構いません。しかし、そうであれば個人の自由の規制をもっと緩めてほしいものです。現実の社会は、全体的に見れば規制がどんどん強まっています。業種別に見ると、規制の厳しさはそれぞれ異なります。ですから、業種により競争の激しさも変わってきます。新しくビジネスに参加しようとする人は、必然的に新規参入の規制のゆるい業種に集まりますから、現状では歪な形での自由競争が常態化していると感じます。
需要と供給という視点から見ると、例えば介護の仕事は高齢化社会により現在需要があるはずです。しかし、多くの人は介護産業で働こうとしません。なぜなら仕事がきついのに給料が少ないからです。需要と供給の関係で考えれば、需要のある産業で働く人には、それなりの給料を払う必要があります。または給料を上げられないなら、パートタイムなどで人を増やして、きつい労働を分散化させるということも考えられると思います。そのための多少のビジネスの非効率化は、この際受け入れるより仕方がないんではないでしょうか。そうやって資本主義のバランスは保てると思います。
需要が多いはずの介護の仕事で給料が低い理由は、多分需要がそれほどでもないのに必要以上の給料をもらっている仕事がどこかに存在するからなんでしょう。それが一般的には、既得権益と呼ばれるものなんだと思います。そのために割を食う人がたくさん出ているんではないでしょうか。
自然の弱肉強食
一方、自然の弱肉強食はルールがありません。戦うのに皆が同じ土俵で戦う必要はないわけです。自分の得意分野で戦えばよいのですから。でも同時に、彼らは弱肉強食の中でも自然の調和を保っています。
動物は本能的に自分の居場所を理解しているんだと思います。例えば、ライオンは百獣の王として君臨していますが、それはあくまでもアフリカのある限定した地域の話です。
場所が北極であれば、ホッキョクグマが君臨するでしょう。同様に、空は空を飛ぶ生き物が支配します。海は海に生きる物が支配します。
一つの生き物が地、空、海すべてを支配しようとはしません。しかし、人間は違います。際限なく他の生き物(人や国家含む)の領域を侵食していきます。いずれは宇宙にも本格的に進出するでしょう。
弱肉強食の考えが生む最近の時事問題
中国が最近尖閣や沖縄にちょっかいを出しているのも、弱肉強食の本能に従っているのかもしれません。周りにとっては迷惑な話ですが、ある意味では彼らの行動は間違っていないと思います。ただし、知恵を持ち自然の中で生きる人としては間違っていると思います。
漢方(中医学)の考え方をちょっとでも勉強すると、大昔の中国には自然との調和を考慮した上で、人の知恵を生かす術を知っている素晴らしい人がいたことがわかります。なんで現代の中国にはそのような精神が受け継がれなかったのか、不思議でなりません。
歴史には詳しくありませんが、多分中国人の中に有用な知識や技術だけを学んで、その精神までも学ばなかった人が多かったんだと思います。技術力の高さから生まれた物質的繁栄を、中国文明が一番優れていると(中華思想)勘違いさせてしまったのかもしれません。現代の中国も、高度成長期の日本同様自然との調和などまったく考えてなさそうですし。
知恵とは何か?
話を戻すと、サルや熊の生息区域はどんどん追いやられてきました。サルが人の生活圏に入ってくると大騒ぎしますが、元々は人がサルの生活圏を先に侵したとも言えるわけです。日本オオカミは人間の都合で絶滅しました。そのせいで鹿を狩る動物がいなくなり、鹿が大量繁殖して現在困っている自治体が多いわけですが、それを引き起こしたのは知恵のあるはずの人間です。
そもそも、知恵とは何なのかそこから問い直すべきだと思わざるを得ません。
欧米ではどうなのか?
アメリカでは、大災害が起きると暴動が起きることがあります。なぜなんでしょう?彼の国は、一見華やかで世界最強の超大国に見えます。ただし、それは都合の良い外側部分だけを見ればの話です。華やかさの裏には、貧富の差が激しい社会という現実もあります。テロも起きています。くさいものに蓋をするのは、別に日本だけではありません。
私がオーストラリアにいた時も、弱者がどのような扱いを受けていたかこの目で見たことがあります。私自身も、人の弱みにつけこもうという人達に何度か出会ったことがあります。性格的に単純ですから、いいカモなのかもしれません。欧米の人たちが元々狩猟民族ということも、弱肉強食の社会と関係しているのかもしれません。でも、人が弓矢で動物を狩っていた時代ならまだしも、現代も同じような弱肉強食の論理で行動されたら、いつまで経っても問題の多くは解決しないでしょう。
因果応報と無関心
因果応報という言葉がありますが、必ずしも原因を作った人や組織や国が、結果も引き受けるとは限りません。日本だって全く関係ない人がたくさんの事故や事件に頻繁に巻き込まれています。多分、全く関係ないということがおかしいのかもしれません。間接的には、皆が原因を作ったとも言えなくもないですから。無関心ということも罪の一つのような気がします。
物質的繁栄と精神的繁栄とのバランス
自らの欲に素直になって物質的繁栄を謳歌するのも大いに結構なんですが、精神的繁栄も並行して追求する必要があるのではないでしょうか。それが知恵を持つ者の責任であり、希望のある未来を作るような気がします。誤解のないように言っておくと、精神的繁栄とは必ずしも武器を持たず争いのない平和な社会とは限りません。完全な管理統制社会で、人々を強制的に洗脳しても争いのない平和な社会は理屈では実現できてしまいます。ですから、私の言っていることは結果が重要じゃなく、そこに至る過程が重要だということです。時代の社会情勢を省みつつ、その状況下で最善の物質、精神双方の繁栄を求めれば良いのではないかと思います。
人の役割とは
人の自然に対する役割は、一つの仮説ですが多分、自然の調整役としての仕事を期待されているんじゃないかと感じます。動物はバランスが取れて自然とは共存共生の関係にあると書きましたが、それでも例外的にバランスが崩れることもあるはずです。知恵のある私たちが、崩れた自然のバランスを直す調整役として働く。それが、自然の中での本来の人の存在意義のような気がしないでもないです。人の役割や生きる意味に関しては、一応他にも仮説はあるんですが、それはまたの機会とします。
おわり