日常に出てくる仏教関連のシーンを抜き出してみた
現在、禅に関する書物を何冊か読んでいるんですが、『日常』というアニメに仏教ネタが意外と多いことに気づいたので、関連したシーンをいくつか抜き出してみたいと思います。原作者のあらゐ氏は多分仏教徒でしょう。じゃないと、このネタの多さが理解できません。
達磨(ダルマ)
まずは、禅宗の開祖と言われている菩提達磨(ダルマ)について取り上げてみたいと思います。ダルマは作中にも驚くほど頻出しており、下に示すのはその一部で、作者に何か特別な思い入れがあるのかもしれません。
ただアニメを見ていてちょっと気になる事があり、それは昔の人が達磨の事をどのように考えていたのか?という疑問です。「だるまおとし」や「だるまさんがころんだ」みたいに、ダルマを題材にした子供の遊びが当たり前のように存在する所を見ると、釈迦や他の偉いお坊さんとは扱いに差があるような気がします。どうも世間での扱われ方が俗っぽいです。
下記の文を読む限り、達磨と王陽明には共通点が多いみたいですので、それを考慮すればドンキホーテのように彼が大衆に馬鹿にされる傾向があったとしても、少しは理解できます。王陽明と達磨では表面上の性格が異なりますし、似ているのは多分「狂者」や「内省」という、信念や修養的な部分だったのでしょう。
「達磨を仏門の王陽明とすれば、王陽明は儒門の達磨である」
忽滑谷快天『達磨と王陽明』より
1.だるまおとし
トップに表示されている画像は、ゆっこが休み時間中に「だるまおとし」で遊んでいるシーンです。前の席で新聞を読んでいるみおとのギャップが何となく可笑しく感じられます。今の学生ってこういう古典的な遊びはやるんでしょうか。スマホをいつも弄っている印象が強いんですけど。
2.だるまさんがころんだ
次は「だるまさんがころんだ」のシーンからで、鬼である麻衣(手前の子)が、参加者のみおやゆっこが静止した状態に耐えられなくなるまでずっと監視しています。こういう類のゲームではやってはいけない暗黙の了解というか、無意識的に守るべきルールが存在すると思うんですが、麻衣は相手の想定していない突飛な行動を取って驚かせる事が好きなようです。
確かにゲームのルールとして禁止されていませんから、固定観念に捉われなければああいうやり方もあるでしょう。ただし遊びとして成り立ちませんのですぐに禁止ルールになるはずですし、仲が良い友達同士だからこそ実行できる裏技だと思います。
3.気合の入ったダルマ
これは、「東雲なの」のお気に入りだったダルマに、「はかせ」がペンで目の空白部分を塗りつぶしてしまったために、このようないかつい風貌になってしまいました。お腹に書いてある「福」という文字と周囲に放たれる威圧感のミスマッチが絶妙です。元が座禅をしているお坊さんには見えません。
ゆっこの瞑想
これは確か、ゆっこが期末試験の勉強をしたくないからと、わざと氷水のお風呂に入って自ら風邪を引こうとしているシーンだったと思います。単に現実逃避のために瞑想をしている、という感じもしなくはありませんが、人は苦痛を経験するからこそ根本に還って自省する気になるものです。
彼女の本名は相生祐子(あいおいゆうこ)と言い、この苗字の相生とは『易経』や漢方などによく出てくる五行思想の「相生」と「相克」に由来するのではと推測します。五行思想の「相生」には、関係のある対象を生み出すという「陽」の意味があるため、彼女の楽天的な性格とも一致しており、次で説明する「相克」の存在である麻衣と相性が良いのも納得できるんじゃないでしょうか。
また彼女は学校の勉強が苦手な一方、本質を探究しようとするその思考態度は、哲学者としての素質が感じられます。学生だったらなぜ勉強するのかについて疑問を持つのは当たり前ですけれど、特に期末試験前に突然悩み始めるあたりが昔の私を思い起こさせます。
仏教マニアの水上麻衣
次は、ゆっこの親友で且つ仏教マニアの水上麻衣を紹介します。麻衣は陰陽で言うと、相手を滅する振る舞いや大人しい性格から「陰」の属性を持っていると考えられます。苗字にも「陰」を表す「水」という文字が含まれており、そう考えると、水上麻衣は「陽」の相生祐子とは対の存在(キャラクター)として生み出されたのではと想像できます。ちなみに、私の苗字にも「水」という漢字が入っており、麻衣程ではないですけど、うちの家系も皆話したりコミュニケーションを取るのが得意じゃありません。自然と「陰」に偏る傾向があるのは偶然なのでしょうか。
ゆっこと麻衣のボケと突っ込みの関係も、ある意味陰陽の関係と似ていると思いますし、上記の写真では麻衣が仏像の本を読んでいますが、他に五行(土・火・水・金・木)に関連した本を読んでいるシーンもあり、高校生にしては渋い趣味です。
上記の恰好は多分、タイの寝転がった仏像の真似をしているんでしょう。ちなみにこれは、麻衣が自分のテストの問題を全部解き終えた後に、未だ頭を悩ませている親友のゆっこをからかうため、彼女が先生の目を盗んでいたずらを始めた場面です。麻衣の普段から大人しい性格と、心を許せる親友に対してだけ見せる突飛なお茶目さ?のコントラストがキャラを際立たせていると感じます。
みおの姉、長野原よしの
みおの姉は、いたずら好きな麻衣をそのまま社交的にしたような性格で、見知らぬ人(東雲なの)にも普通に話しかけて困らせたりします。上の場面は、妹のみおが大事に残していたイチゴショートのイチゴをよしのが食べてしまい、天に召されたイチゴに対して彼女がお釈迦様みたいなポーズを取ったシーンです。
こちらは、妹のみおに対し姉のよしのが、落としたのは「木で出来た木魚」か「金で出来た木魚」かを訊ねている場面です。何で木魚が突然出てきたのかさっぱりわかりませんが、何と言うか、いたずら好きの性格は麻衣とよしので相通ずるものがあります。「静」の麻衣と「動」のよしのという感じで、キャラの役割分担がうまく出来ていると思いました。また「木魚」という単語は、私の目指している「木猫」や「木鶏」と何らかの関係があるような感じもするし、言葉の由来に興味があります。
輪廻転生
これは、ゆっこが誤って麻衣の弥勒菩薩を壊してしまった後で、まったく無傷の仏像が彼女の手に握られているのを発見し、仏が現世に輪廻転生して舞い戻ってきたとゆっこが勘違いした場面です。
空也上人
上記の人物は私も学生時代に見た記憶がありますが、具体的に何をした人なのかは全然覚えていません。今でも口から何かが出ている写真が教科書に掲載されているんでしょうか。
メインキャラのゆっこ&麻衣&みおは、作者の性格を反映している(たぶん)
恐らくですが、メインで登場する三人のキャラは、原作者あらゐけいいち氏の性格を少しづつ反映しているんじゃないかと思います。例えば、ゆっこのどじっこで自由奔放な性格や彼女の日常生活の葛藤に対する哲学的思考、また麻衣の普段大人しい態度といたずら好きで仏教マニアな性格、そしてすぐ感情的になりやすい妄想癖のあるやおい漫画家のみおなど、作者自身どこか思い当たる節があるんじゃないでしょうか。実際どこまでキャラと作者が被っているのか不明ですけれど、私は何となくそこに関連性を感じました。
まとめ
ここではアニメ『日常』に登場する仏教に関連した一部のシーンを抜き出して紹介しました。これ以外にもまだありますけれど、それらはご自身で確認していただければと思います。
仏教は元々インドが起源ですから、私たちが普段知っているものは中国人によって再構成された中国仏教となります。インド仏教が中国に伝えられた際、儒教など現実的な考えが実生活に根付いていた中国人にとって、彼らの壮大な発想力を元にした経典を理解するのは大変だったようです。
それを幾世代にも渡り、少しづつ中国人にも受け入れられる形で仏教が再構築されて、その教えが日本にまで伝えられました。ですからもし仏教に興味がある場合は、表現力が豊かなオリジナルのインド仏教に多少親しむのも、あるいは良いかもしれません。私は個人的に原始仏教の教えに非常に得る所がありました。
華厳経や楞伽経などの経典を読めば、インド人の考え方や雰囲気を知ることが出来、中国人との違いが明確にわかるはずです。インド流の億やら万のような、途方もない単位の数字が頻出したり、大が小になり小が大になるような変幻自在の物事の捉え方には少々面食らいもしました。アニメ中(例えば日常の83)にも、一見赤い惑星だと思っていたのにカメラを引いてみると、実はゆっこの指先から出血していただけだったというシーンがあり、大から小に視点が瞬時に移動する表現方法は、仏教的だと思います。
作者はなぜタイトルを『日常』と付けたのでしょうか?内容を見る限り、日常的な生活の中の非日常性を表現したかったんじゃないかと推測します。「日常の非日常性」というと、逆説的な荘子の「無用の用」や、ソクラテスの「無知の知」、高杉晋作の「愚に入りて不愚に帰す」や私が今考察している「無意味の意味」などと、思考のアプローチが似ているのがわかると思います。
また、原作者のあらゐ氏は私より2歳年上なだけでほぼ同世代なため、古いネタでもすぐ判別が可能です。例えば、ゆっこの「スーパーウルトラグレートデリシャスワンダフルわかりずれー」というセリフは、燃えるお兄さんに登場するアメリカンなキャラの必殺技、「スーパーウルトラグレートデリシャスワンダフルボンバー」のパロディだとすぐに気づきましたし、当時作者同様私もかっこいいと思って、わざわざ乗りにくかったM字ハンドルのスーパーカー自転車も所有していましたし、ファミコンゲームのドラクエやゲゲゲの鬼太郎などで必要な、めんどくさい復活の呪文を何の不便と感じる事もなく当たり前のように入力していました。
他に、ゲームボーイやバーチャルボーイなどのクラシックな携帯ゲーム機も、立花みさとのツンデレシーンで登場しています。あの当時の子供は、皆ブームに流されて似たような行動を取っていたのかもしれません。流行に無頓着だと学校で友達との話題に付いていけませんし、その結果仲間外れにされる恐怖が私の中にあったんだと思います。
今考えると、子供時代に享楽的で無駄な時間をさんざん過ごしたと感じますが、バブル経済の頃に子供だった私の目には、流行した物全てが価値あるものに見えていたんです。価値のない物をいかに価値ある物として消費者に提示するかが、ビジネスの本質とも言えますが、それらの商行為が拡大解釈されて今日では法律にさえ違反していなければ何をしてもいい、みたいな道徳無視の商売が当たり前のように横行しています。その矛盾の結末は、遠くない未来に誰の目にも明らかな形で露わにされるでしょう。本当の学問を学び、主体性を持って生きることの大切さを再認識しました。
おわり
わたしとわたしの運命―――われわれは、きょうあすを目あてに語るのではない。またいつになっても来ない日にむかって語るのでもない。われわれは語るのに、忍耐も、時間も、超時間もじゅうぶん持ちあわせているわけだ。なぜかといえば、それはかならず来るからだ。それは素通りするわけにはいかないからだ。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』より
解説:
ニーチェの言う「それ」とは、大いなる、はるかなる人間王国、ツァラトゥストラの千年王国のことですが、私の言及している「それ」とはこれから直面するであろう大小さまざまな崩壊や混乱の事です。ある問題が表面化すると、一見特定の人物や集団または社会構造に原因があるかのように見えるかもしれませんが、元をただせば私たち全員に責任や罪がある、という自覚が必要だと思います。