だれにも読めないらしい、ニーチェのツァラトゥストラを読み解く Part2

皆さま、こんにちは!

ニーチェのツァラトゥストラを読み解く、第2回をご覧いただきありがとうございます。

今回は、「第1部 ツァラトゥストラの序説」の二から始めたいと思います。岩波文庫さんの書物で言うと、11ページ目です。

前回はツァラトゥストラが、10年間山で蓄えてきた知恵や、人類にとって祝福となるはずの教えを、太陽のように人々に贈りたい、分かち合いたい、という熱い想いから、没落を覚悟して山を下りる決意をした所で終わりました。

引き続き、超人とおしまいの人間たちについて考察していきたいと思います。

1. 白髪の老人との出会い

ツァラトゥストラは山を下りていき、森に入った時に、白髪の老人と出会います。

その老人は、10年前に山の中へ入ろうとしていたツァラトゥストラの事を覚えていました。

当時と比べ、彼の眼は清らかになっており、舞踏者のように足取り軽く歩いているのを見て、老人は彼の大きな変化に気づき、そして問いかけました。

「あのとき、あなたは自分の死んだ灰を山に運んでいった。今日はあなたの生きた火を谷に運ぼうとするのか?あなたは放火者として受ける罰を恐れないのか?」と

2. 考察1

ここで一旦考えてみます。

白髪の老人、森の聖者は10年前、山に入る当時のツァラトゥストラを「死んだ灰」と表現しました。そして今の彼を「生きた火」と表現しています。

若い頃のツァラトゥストラに何があったかは分かりませんが、いずれにしても生きる希望を失い、廃人のような状態で山の中に入っていった事が示唆されています。

また、今の彼は子供のように希望に満ちている事から、山の中で暮らすことによって大きく生まれ変わった事が分かります。

それと、なぜ「生きた火」を人里に運ぶと放火者として罰を受けるのでしょうか?

それは、ツァラトゥストラのように人々に特別な贈りものをするため行動する人間を、多くの人は信じる事ができず、時に彼らの生き方や価値観を否定しかねない存在となるため、社会の邪魔者として見られてしまう可能性があるからです。

3. ツァラトゥストラと森の聖者の問答

話を戻します。

森の聖者の、罰を受けるのを恐れないのか?という問いに対し、ツァラトゥストラは答えます。

わたしは人間を愛しているのです」と

その答えを聞いて、白髪の老人、森の聖者は言いました。

「しかし、なぜわしはこうした寂しい森の中に住むことにしたのだろう?それは、わしが人間を愛しすぎた結果ではないのか?(中略)人間への愛は、わしをほろぼすだろう」と

これにツァラトゥストラは、「どうして愛するなどと言ってしまったのだろう!わたしは人間たちに贈りものを与えにいくのです。」と言い直します。

二人の間で問答が続くのですが、森の聖者は若い彼、と言っても40歳ですが、が今後人々と関わる中で経験するであろうことを予見していました。ですから、人里に下りず、森や山の中で暮らしなさいと助言します。

でもツァラトゥストラは、自らの信念を貫いて山を下ります。

4. 考察2

再びここで止めましょう。

森の聖者はここでしか出てこないので、この方に焦点を当てて考えてみたいと思います。

なぜ彼は森に住んでいるんでしょうか?

それは、彼自身、人間を愛しすぎた結果だと答えています。人間への愛が彼自身をほろぼさないよう、人里から離れたという事です。

ではなぜ、人間への愛が彼をほろぼすのかと言えば、人間があまりに不完全だからと答えています。

ここではこの説明しか出てこないのですが、おそらく後のパートで登場する、ニーチェの有名な「神が死んだ」理由と、聖者がほろぶ理由は、共通しているんじゃないかと思います。

そしてなぜ二人は最後笑いあって別れたのかと言えば、考え方や選んだ生き方は異なれども、人生に妥協しない求道者としてお互いを認めており、心を許し合えたからだと思います。

5. 何を学び、人生で活用したか

次に、本日の内容から、自分の人生で何を学んだかについて考えてみたいと思います。

共通点は二つあります。

一つ目は、ツァラトゥストラが山に入る時と、山から下りた時の状態です。

前回もお話ししましたが、私も10年前、人生で希望が全く見えなかった頃、社会から距離を置いて、自給自足の生き方に一つの可能性を見出しました。

多分、ツァラトゥストラが山に入る決断をした時も、何かの希望・救いを求めていたんではないでしょうか?

そして、彼が山を下りた時、私で言えば社会と再び関わり始めた時と言えますが、己の信じた道を突き進むという点で、私も彼も共通しています。

自らの没落を自然なものとして、受け入れられるようになったという事かもしれません。

私の場合、ここまで来るのに相当時間がかかりましたが。

二つ目は、森の聖者の生き方から、人と距離を置く人が、必ずしも人間嫌いとは限らないという事が分かると思います。

寂しい森で孤独に生きると決断したのは、逆に人をあまりに想い過ぎた結果かもしれないという事です。

これは、晩年の孤独なニーチェを連想するものがあります。

彼の最期を思うと、己の哲学を完成させるために、あまりに人に近づきすぎたのかな?と私は思いました。

仮に、森の聖者のように人の内面を追求しない生き方を選べていたら、もう少し長生きできたかもしれません。

しかし、彼はあえて厳しい道を選びました。同じ求道者として、そこを尊敬しています。

6. まとめ

今回はここまでとします。

ツァラトゥストラと森の聖者は、ある意味非常に似ています。でも、似ている彼らが、異なった考え・生き方を選択する、象徴的なお話だと思いました。

今日は、4ページ分進める事ができました。

ご覧いただき、ありがとうございました。