学者とはどうあるべきか?学問を究めるためには?求道者の一人として考察
皆さま、こんにちは!
昨今、世の中は学術会議の件で騒がれていますね。
自分も学問を志している者の一人として、学ぶとは何なのか、どうあるべきかについて考えてみようと思います。
これは前回の税金のお話ともつながってくるため、早めにお話いたします。
1. 学者とは何なのか?
まず、学者とは何なんでしょうか?
そのまま読めば「学ぶ者」という意味ですが、何をもって学者とするのでしょうか?学校の先生?大学の教授や講師?研究者?専門の職業や肩書があり、お金を稼いでいることが条件なのでしょうか?
例えば私は、人がどう思うかは別として、自分では学者という自覚を持っています。そのため、このブログの名前は「学問を究める道楽道」となっています。学ぶ事を通して自分自身を究めたかったからです。
なので、他の学者の方には、個人的に興味があります。
ただし、私は人を肩書や社会的地位では判断しません。人類皆平等、態度も変えませんので、会っていきなり嫌われることもあります。
2. 学者が偉人や英雄を生み出すこともある
歴史を見ると、学者の方の信念や教えが、後の世に偉人や英雄を誕生させることが間々あります。
例えば、先日哲学系の動画でお話した、熊沢蕃山もそうですし、他に大塩平八郎、佐藤一斎、山田方谷、春日潜庵、吉田松陰などが当てはまります。中国ですと、王陽明がすぐに思いつきます。
この中で私が一番共感し、尊敬している方は、西郷隆盛の友人であり、東郷平八郎の先生だった春日潜庵という人です。時間があれば、ぜひお話したいと思います。
3. 学問の天下人「中江藤樹」の紹介
そして、今述べた方々に繋がりのある、日本の代表的人物として、近江聖人と呼ばれた中江藤樹という方がいらっしゃいます。
自分が王陽明の教えを学ぶ、きっかけになった人です。
日本文学大賞を取った、小林秀雄さんの『本居宣長』という作品の中で、彼はこのように評されています。
「中江藤樹は独学し、独創し、ある村の村人として人生を終えたが、誰もが認める近江聖人の名声を得た。これは学問の世界で、前代未聞の話であって、彼を学問上の天下人と言っても、言葉を弄する事にはなるまい」と。
そして、学問については次のように言っています。
「学問は一旦死なねば、生き返らないと見極めた所に彼、つまり中江藤樹の独創性がある」と。
自分にはこの意味がよく分かります。K/p>
魂の失われた学問は、一回死なないと復活しません。表面上を修正したり、改良しただけでは駄目なんです。
不死鳥フェニックスのように、燃えて灰となった中から、新たな生命が生まれます。
気づいた人もいらっしゃるかもしれませんが、これは、ツァラトゥストラの、 山奥に住んで「死んだ灰」から「生きた火」に生まれ変わったエピソードと似ています。
中江藤樹も同様に、武士としての人生を捨て、一人の村人として生活する中で人生をやり直す事ができました。
当時武士の脱藩は重罪ですので、相当の覚悟で刀を捨てた事になります。なぜそのような生き方を選んだのか、それを説明すると長くなるので、また別の機会にいたします。
ここで大事な事は、学問とは流動的であり、生きているという事です。生命のように成長もしますが、年も取ります。でも、死んで生まれ変わりもします。
学者とは、肩書や名声を持つ人の事だけを言うのではありませんし、専門性の高い分野を学ぶ人だけがそうではありません。
成長のためには外の世界を学ぶだけでなく、己を知る学びも必要です。
それと、お金を目的として学ぶ事については、2000年前の孔子がその事を嘆き、イエス・キリストがマモン(世俗の富)として戒めております。別にそれ自体が悪いとは思いませんが、お金だけ考えて行動するのは問題だという事です。
原発事故で避難命令が出されるなど、世の中碌なことにならないのは、皆さん何らかの形で経験しているはずです。
4. 学問の存在意義・価値について
次に、学問の意義とは何なのかについてお話したいと思います。
これは社会的意義と個人的な意義があると思います。
まず学問の社会的意義については、言わずもがな、世の中の発展のためですね。政治・経済・技術・文化・モラル・自然、あらゆる分野に及びます。その重要性を疑う人はいないと思います。企業も、この社会的貢献をミッションとしてビジネスを行っている所が多いです。
個人的意義としては、生活のため、豊かさのため、欲求を満たすため、など個々人でいろいろ理由があると思います。
ただ、社会人になって仕事に没頭されると忘れがちなのが、己の成長のためにも学問は重要だという事です。
人生経験は大事ですけど、一人の人生で経験できることはたかが知れていますので、他の方法で学ぶ事も必要です。
例えば、日本が経済的に没落し、人口が減っているのは、大きな視点で見ると、学問を軽視した結果ではないか?と考えています。
生きる意味、生きがいについて向き合う暇すらありません。そのような状況で、人はやる気になるでしょうか?熱意が持てるでしょうか?新たなことに挑戦しようと思うでしょうか?
5. 学問の意義を示すための能力とは?
これからの混乱の時代、学者は学問の存在意義、存在価値を、自らの能力と共に示していく必要があるのでは?と考えています。
今までは、知識や経歴、権威などで国や教育機関に特別扱いされる事もあったと思いますが、これからは難しいと思います。
なぜかと言うと、前回の税金の話と繋がりますが、今後税収も減り、上がることはないからです。
当人が必要と感じても、国民が納得しない限り、無い袖は振れません。
知識にしても、グーグルで検索すればいくらでも出てきますし、世の中が根本から変化しようという時に、過去の経歴や実績で人を判断・評価するのは逆にリスクに感じます。
一度成功した経営者の方が、大きく失敗する原因の一つとして、過去の実績を払拭できなかった、という事は十分あり得る話です。
同じことが学者の方にも言えるんじゃないでしょうか?「以前うまくいったから、今回もうまくいくはず」という考えは危険です。
6. 学者を社会的に保護するのは賛成、しかし...
話を戻すと、直接お金に繋がらない分野に、税金を投入するのは今後難しくなります。
私も本音は、学問の求道のため、学者を社会的に保護するのは賛成なんです。
なぜかと言えば、普段から仕事やビジネスに追われていては、今までの価値観を覆すような、独創的発想は難しいからです。そこから、人類の進化・発展に繋がるという確信もあります。
ただし、先ほども言ったように、無い袖は振れないので、多数を説得するのは無理だという事も分かります。
7. 二つの提言
ではどうすれば良いかと言うと、私が提言するのは二つです。
特立独行の志
一つは、学者自身が特立独行の志を持つことです。
特立とは、自らの独自性を活かして、特別な仕事を作り出すことです。もしそのような独自性が現状無ければ、生み出す努力を早期に行う必要があります。もちろん、それは世の中に役立つことが前提です。役に立たないとお金になりませんので。
後は、とにかく行動する事です。学者の方は一般的に、行動するのが苦手という方が多いと思います。そのお気持ちは十分に分かりますが、苦手ならできるように自らを作り替える努力は必要でしょう。
経済的自立
そして二つ目は、経済的自立を目指すことです。お金の面で独立できていないと、自らの主張を通すのは難しいと思います。
私がこのコロナ禍の中で会社を辞めて独立しようと思ったのは、世の中が大きく変わる、という確信があったためです。
そうなると、今の自分も変えなくてはなりません。
組織・社員として求められている私と、これから到来する未来に対し、私が今やらなくてはならないことの間で葛藤はいたしました。
不安・恐怖を感じると思いますが、学者の方も経済的に独立する必要性が今後出てくるのでは?と感じています。
自分の仕事は一生安泰、という事でしたら、そのままでもいいと思いますが、情報を扱う仕事やビジネスは、近い将来あり方を問われると思います。
自ら行動し、実力を証明する事で、逆に学者は理屈だけじゃないんだな、本当に優秀なんだな、と世間に思っていただけるようになると、私はうれしいですね。
8. まとめ
以上となります。
今回は、学者・学問はどうあるべきかについて、原点から始め、存在意義、そしてどういう能力が今後学者にも求められるのかについてお話しました。
知識がそのままお金になる時代もありました。それは私の関わるコンサルティング業界も同じです。でも今は違います。
置かれている状況によっては、学者の方も今後はビジネスを視野に入れないといけないかもしれません。
その時、学ぶとは何なのか、そして自分の学問の存在意義・価値を明確にし、独自の強みで世の中に役立つ形にして、経済的独立のために行動します。
そうすれば、仮に一国のリーダーに任命を拒否されたからと、わざわざ大きな問題にする必要も無くなるでしょう。
ご覧いただき、ありがとうございました。